「地図に境界」  2005



「地図に境界」 2005 

フタバ画廊(2005個展)、
横浜馬車道北仲WHITE (2005個展)など




2002年に初個展を開いてから2004年までは写真作品を中心に発表してきたのですが、2005年の個展では地図の上にドローイングを施した作品を発表しました。
写真作品とはだいぶ趣をことにしますが、このテーマも引き続き「境界」ということを追求した作品で、今度は具体的なものを使用し、より直接的に「境界」について探求した作品です。

地図

「境界」という、眼に見えない概念をこれほどまでに意識し、視覚化したものというものはまず見当たらないでしょう。
この地図によって「国」という概念が明確化され、それによって何万人という死者が出たりする。国境と国境はたびたび極度な緊張と、流動性を持つ。流動性があるがゆえに、危険でもあり、かつ魅力的でもある。眼に見えないのにこれほど人をとりこにするものもないでしょう。
さらに海と陸の境界線、街、山の等高線。。。

地図には線一本でしか現されていないけれども、実際は非常にその境目というのは豊かな魅力で一杯なのです。特に海と陸の境目は常に満潮や引き潮、波で移り変わり、両生類が持つような不定形な気持ち悪さと、原初的なものが立ち顕われる魅力。なまなましさ。
様々な意味での多義性が、海岸という境界にはあるのではないでしょうか。
しかし、地図は地図です。そんなものはそぎ落とし、すべて記号化し、人間の概念の露骨な限定化にひたすら寄与しています。ある意味究極の完成形とも言えるかもしれません。


そこで、その「完成形」に、いたずらをしました。
地図に、インクでシミをつけたのです。
すると、余りに完成していて美しささえ出ている地図が、とたんにただの紙に立ち戻って、地図の様々な記号が、「紙の上の単なる模様」にも還元されてくることになりました。
さらに、シミと地図の境界を、ペンでひたすら細かくなぞったのです。そうしますと、そのシミが、地図と同じ、いや、それ以上に精密になり、地図上の限定し完成された概念と拮抗するまでになり、どうしたって無視できない「モノ」として定着しました。


しかし、その「モノ」はいくら精密になっても、意味のないシミです。なのに、無視できない。意味は宙吊りのまま観客の眼に提示されるわけです。そうすると観る人は一生懸命イメージを考えます。結果的に、色々な気持ちを引き起こすでしょう。
「まるで緑色のアメーバーが日本に攻めてきているみたい」
「環境活動の一環としての植林運動の図のようだな?、それとも埋め立てられた土地?」
「自分の行ったことがあるところなんだけど、こうされると、侵食されたようでいやだナァ。。
でも、懐かしいな、この土地。色々思い出す。」
などなど、様々な感想を聞くことができました。


また、どうして緑色のインクを中心にシミをつけたのかといいますと、ポジティブなものにも見えるし、ネガティブなものにも見えるような色だったからです。しかも、具体性を帯びて。例えば紫色であれば、具体的なイメージが緑色ほど思い浮かべにくいかもしれませんし、赤色だと、危険なイメージが強すぎて、意図するところと別の強いメッセージ性が出てきてしまう可能性が大きくなってしまいがちだと考えました。
さらに、地図を選ぶときに海岸線を重点的に選択したのも、前述のような海と陸の境界における多義性を意識したからです。多義的なところだからこそ完璧に見える地図にもつけいる隙があるのではないかと思ったわけです。

 



「五色台に境界」(部分)
2005年 F15号キャンバス、市販の地図、その上にインク・ペンでドローイング
530?×652?