「超意味」 貴乃花親方



・哲学や芸術やなんか「表現」「思考」といったものというのは、実はあまり固定した「意味」以前(以後)のものが重要なのではないかと思う。それを今まで「無意味」の美学という風に捉えていたが、やっぱり「無」ではないんじゃないか、ということで、「超意味」という風にして捉えなおして考えてみたい。一概に「超意味」といってもいろんなスタンスはあるけれど。


貴乃花親方暴走爆走。哲学や芸術とは多少違うかもしれないが貴乃花親方も、「意味」を超えてしまっている。横綱のときもそうだったが、もはや彼には普通の「意味」が通じない。いや、それを多分考えつくした挙句に「超意味」に至ったのであろうと思う。「超意味」は、もはや正しい、間違っているということを突き抜けて、問題を原点から考え直す「きっかけ」を皆に与えうる。その信念と実行力と継続した意思の力はなんなんだろう。右足を負傷したまま強行出場して、見事武蔵丸を破ったときに見せたあの「鬼の表情」が垣間見れた。やせこけただけに、また違った峻厳さが加わった。ここでもやはり、「気合」だな。今後、貴乃花親方が理事選に敗れようが勝とうが、あの「異様さ」によって大相撲界は地殻変動を起こすだろう。どうなるか。


・昨日、TYと電車で「インスタレーション」ということについて話した。なんでインスタレーションという表現はなかなか自然に感動できないのか。とか、インスタレーションの「完成度」ということについて。とか、コンセプトについて。とか。TYは作家ではなくて、美術界をある意味メタな視点でクールにながめ続けているので、非常に興味深いお話。この話も、やはり「意味」「超意味」に繫がってくる。


・制作。たまに衝動的に人と話したくなるのを我慢して制作していると、独りで制作しているのがとても気持ちよくなってきて、のりのりで制作していく。でも、やっぱりある瞬間に電池が切れるみたいに落ち着かなくなる。そういうときは、音楽を聴くか、食事を作るか、食べるか、掃除するか、風呂に入るか、ブログ書くか、パソコンいじるか、人に電話してみる。