仕事、喫茶店、江藤淳「妻と私」、Aさんの庭



・例によって仕事が遅々として捗らぬ。勿論大学や専門学校や絵画教室などの出向く仕事はだいたい順調にひと段落したというところだが、今度自分自身で企画立案したり何か物事をおこそうとするような類の仕事になると途端に暇はあれど遅々として進まなくなることが往々にしてあるのだ。それは文章を書くのでもそうだし制作をするのでも同じ悩みを抱えるし、あとはどこかのなにかに履歴書を書いて出すだとかまあそんな類まで種々自ら行動を起こそうというときにはなかなかちゃんちゃんと仕事は進みかねるのである。
折角出向く仕事が一段落したからさあこれからは時間があるのだから自分のこれからしたいことをしようと思ってもどうして全然出来ないのだろう、と思いながらとりあえず喫茶店に行って本を読む。喫茶店に行って今後の予定を立てて、ほんのちょっと本を読んで珈琲で目を覚まして、昼間の明るさでさらに目を覚ましたら、さあ仕事だというふうになるのが当然なのだけれども・・と思いつつ今も肝心のことができないままここに徒然なるままに文章を書き散らしている次第なのである。


朝は珍しく二日連続しての雨が降っており、湿気は多いながらも多少は暑さが緩和されていた。久しぶりに太陽が出ていない東京の夏はそれはそれで珍しいのでちょっとホッとしながら前日作りおきしておいた鍋を食べて、中野のベローチェまで自転車で出向く。近くにあるあおい書店をふらっと立ち寄った後、アメリカン珈琲のMサイズ百七十円を頼み、いつもの奥まった席を陣取る。Yといつものように携帯メールで何気ない会話をしながら読書しているうちに目が覚めてきて、さて、そろそろ帰って肝心のことをやってしまうぞと自転車に乗り込み、家まで帰ろうと漕ぎ出す。
と、途中でついついいつも通っている高円寺の都丸書店に立ち寄ってしまう。百円で江藤淳の『妻と私・幼年時代』『アメリカと私』(ともに文春文庫)が売っていたので買って帰る。『妻と私』に関しては単行本で一度読んだことがあるし実家にもそれがあるのだがあまりに前に読んだものなので細部までよく憶えていないのであるから、読み直すにはちょうどよかった、文庫本だから手軽だし、と思い、手に入れる。


家に帰って別に読む気はなかったのだが一ページ目をめくったところからついつい読んでしまい、吉本隆明石原慎太郎の書いた追悼江藤淳の文章までも読みきってしまう。いやになまなましくこの齢でこの状況に陥った人の精神状況やそんなものが自分を包んでくる。なんだか窒息させられそうなくらいきゅうっと心臓を握られているような感触である。ちょうど老年に差し掛かっている両親をついつい思い浮かべてしまったり、恋人のことを思い浮かべてしまったりする。ああ、老いるというのはこういうことなのか・・しかしながら同年代或いは年長の吉本や石原は、同じ老いを辿っていた江藤に共感と理解を示しながらもやはり彼らの文章にはまだまだ生命力が感じられるし、ああいう感じでの老いではないことは明白なのである。江藤の老いというのは一般的な老いではなく、ある「タイプ」の老いなんだなということがこのふたりの追悼文を通してよくわかる。そのある「タイプ」というのがあまりに江藤淳というひとに影響を与えていたのだということがよくわかる。
僕は詰まるところ、この人の「タイプ」ではないので、江藤のような状況になったとき危ういところで乗り切れるだろうというような予感はあるけれども、やはりある「タイプ」の人にとってこの文章はあまりに残酷な文章であり、この文章の故にほんとうに引き込まれてしまうような類の不吉なものである。葬式のときの、「友引」の禁忌という言葉を思い出してしまう類のものである。江藤の奥さんに、江藤の状況に、江藤もろとも、江藤の周りの人びと・・・と、どんどん輪が拡がり、その中に取り込まれてしまうような強烈な循環性のある、アリ地獄のような装置なのである。
さらにたちが悪いのは、最愛の妻の死から完全に立ち直りきろうとしたところでやってきた前立腺肥大と脳梗塞というさらなるダブルパンチに江藤は、瞬間的にノックアウトされてしまったのだという事実。やはり断ち切れて居なかったのだ、昇華できなかったのだ。彼の中でのぐるぐるぐると云う連関性の輪の中から脱却できていなかったし、もしかしたら「脱却」するという概念がなかったのだ。いや、脱却なんか、矢張り、したくもなかったのだろう。昇華もリセットも脱却も彼の中にはこれぽちも浮かばない。強烈に「超克」するという概念や意思はあったとしても。
ここにこの「タイプ」の人の詰まるところの圧倒的な孤独があぶりだされる。このひとはやはりひとつの人生を完全にひとつの生きかたとしてしっかりとしたつながりを持とうとして生きてきたのであり、そのひとつの、ひとつだけの人生というものが、ただ唯一の彼の人生であり、その徹底した一元的なものにこそ彼が生きるたった一つの根拠があったのではないかと思った。それだけが彼の生きていた所以だった、というくらいに。そういう面では、吉本や石原なんていうのは、リセットや昇華や脱却なんていうもので、老いや不幸から自分を救えているのだろうなと。自分が自分であるのに、何もひとつの自分ではなくても良い、「これはこれだし、あれはあれである」といった割りきりやドライさを感じるのである。そして、僕も、おそらく江藤タイプではなく、後者のほうに属する人間であろうような気がするのである。併しひとつだけ書きとめておくが、リセット/昇華/脱却/多次元型だからといって、愛が減るわけではないということを。ただ、息を吸うために、生きていくために、自分を多次元にするだけのことなのである。

・漠然とだが、おおきなものごと(たとえば人生とか善悪とか)をひとつの連綿とした繋がりとして、つじつまが合う(納得する)ことに執着しすぎることは、考えものであると思った。
・根本的な「つながり」ということを、物凄く考えさせられる。
・さっき読んでその勢いでそのままラフスケッチのように書いたので、意味がわからなかったりしたらごめんなさい
洲之内徹『絵のなかの散歩』所収「赤まんま忌」と、比較してみようと思う。


・高円寺から荻窪に帰る途中、「Aさんの庭」という、一見ふつうの家のような公園のようなものが出来ているのに気づく。何でも、トトロのサツキとメイの家のモデルになったらしい。そういえば、馬橋のあたりはほんとうに自然がいまでも残っているし、トトロの雰囲気を未だに残しているような気がする。 
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000001007260001
しかし、「Aさんの庭」の家は火災で消失してしまい、代わりにそのイメージで建てられた建築物はなんと、公衆便所と防災倉庫。ちょっと、いや、だいぶがっかりである。せっかくあんなに広くて豊かな敷地と素敵な庭を開放して、肝心な建物が便所と防災倉庫だけというは。いや、もちろん便所や防災倉庫はあったほうがいいのだけれど、折角だからもう少し頑張って、中で休める施設をつくるとか、小さな展示場をつくるとかすればよかったのになあ。画竜点睛を欠くとはこのことか。