金曜日、木曜日




・今日も照明を落としてプーランクを聴く。今日は仕事になりうるかもしれないことのために千葉のほうまで話をきいてくる。荻窪に戻り、中野まで自転車で行き、中野大勝軒のつけ麺を食す。やはり美味しい。荻窪の春木家同様、シンプルイズベストである。最近のつけ麺の進化ぶりは凄まじく、かた麺、太麺、があっという間に巷を凌駕しているが、ここのつけ麺は、相変わらずつるつるッとしていて、夏にとても良い。ベローチェで読書をして帰宅、ゲド戦記を観る。今日も相撲は観ず。


・午後九時頃地震有。東京二十三区は震度四。併し杉並区は震度三と云う。だが矢張り体感としては震度四位であった。初め僅かに揺れを感じるも、間も無く其の揺れがミシミシと云う風に少し強くなり、積み重ねてあった澁澤龍彦の文庫本一冊が崩落す。其れ以外被害無し。併し暫くは恐怖を感じ、気休めに電気を目一杯点ける。




・木曜日は、お盆なので墓参り。非常に暑い中家族三人で、本郷三丁目の東大赤門前に在る寺に行く。毎年同じような日に、同じような読経を聴く。そして卒塔婆を渡されてお線香をあげ、水をかけ、お祈りする。なんだか一年ぶりだと思えない。同じ場所で同じお坊さんが居て同じような読経をあげてくれて、同じようにお参りする。物凄く既視感があるのは当然なんだけど、やはりその既視感によって一年がぎゅっと凝縮されて、あっという間に感じられてしまうと云う感覚が、不思議である。
同じ季節に同じ場所で同じ行為と同じ儀式を繰り返すと、その既視感によって、日常の時間から異次元の時間空間にワープしたように感ずる。それは、普段流れている時間とは別の時間の「繋がり」に接続したようにも感じられる。だから、前年の同じお盆の出来事が、恰も昨日のことのように感じられるのだろうと思う。
一年があっという間に凝縮されるだけではなく、二十年前やもっと前にも同じように「ここに来た」記憶とも直ぐに繋がる。更にはお墓に入って居る人たちとも直ぐに繋がる。その接続のしかたは、やはり日常の流れている時間=論理とはちょっと違うスパンのものである。

死ぬ直前に、一挙に、走馬燈のように人生を振りかえるなんていうことがあると云うけれども、そんな時間感覚にちょっと近いものが体験できているのかもしれない。自分が生まれてから死ぬまで。もっと云ってしまえば、それ以前とそれ以後にも、意外と直ぐに繋がって居るんだと云うような実感のようなものが生まれる。そう云うのを体験できると、何故か心が安らぐ。あらゆる事柄が些細なことに思えてくる。執着しなくなる。おお!なんか、やっぱり墓参りをしたりすると、仏に、近づいているのかもしれないな。


・毎場所毎場所同じ場所で同じ時間帯に、ほんの少しずつ変わっていく面々のぶつかりあいがあると云う、この当たり前のことが、やっと戻ってきた。大相撲が戻ってきた。でも、戻ってきた途端に、空気のように当たり前になった。あっというまに、当たり前のような場所が戻ってきた。それは、お盆のお墓参りのように、異次元の時間に繋がっている。
「あ、そう云えばもう初日始まってたんだな、もうそんな季節なんだな。二か月経つの、はやいな。あっという間だな。」




・墓参りを済ませた後、家族で銀座に出て、星福銀座一丁目店へ行く。ここは、ランチが非常に安く、美味い。1100円から1300円くらいで、こんな素晴らしい料理が食べられるなんて、幸せだ。 http://www.xingfu.co.jp/
画廊に勤めているときは、1週間に一回くらい、自分へのご褒美として休み時間にここのランチを食べに行っていた。他にも銀座は、ランチが美味しく安く食べられる店がいっぱいある。夜はめったに行けない店ばかりだけど。
食後に、十一房珈琲店に行く。僕は「スマトラ」を頼む。http://r.tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13007721/ 四時過ぎて、両親は帰宅の途につき、僕は大学に勤めに行く。



・大学。あっと云う間にもう四回目の授業。学生の名前や顔も憶えてきた。自然な形で仲良くなってくるのもこれくらいから。授業後、NDやFDたちと喋る。