ポットが壊れ、続くと云う事を考える





.ポットが落っこちた。ガシャガシャーンと云う音をたてて、落っこちた。ポットを拾い上げると、重量としては変わらないのに、元通りの感触とは全然質の違う重たさになっている。中にコーティングしてあった銀色の保温用の金属が殆ど全て剥離して、それが底にたまったために、重たさの質が違ったのであろう。その金属片はやたらときらきらして、宝石のように美しく、少し見とれてしまった。
それにしても儚い。一瞬にして使えなくなったポット。八年間も使用してつい先ほども使っていたのに、もう、ポットはポットでなくなってしまったのだ。無理やりポットとして使おうものならば、もうそれは凶器以外なにものでもなくなってしまう。粉々に砕けた銀色の金属片が無数に、きらきらと湯に浮くことであろう。もちろん、そんなものは飲めるわけがない。外枠はポットの形を維持したままで、全く変わりないのだけれど、もうそれは、ポットではない。
八年間親しんだポットは、明日か明後日には、塵として出される。それまではポットの外形をしたオブジェである。



・一年も過ぎようとしている。三百日はベローチェに行き、読書をし、本屋を巡り、写真を撮り、だれかしらと会い、二百日はブログを更新し、百日程度はまとまった制作し、まとまった文章を書く。三百六十五日だれかしらのことを考え、美術のことを考える。夏は烏龍茶を飲み、冬は紅茶を飲む。
専門学校には五年、大学は二年、風景画教室は六年、絵画教室は二年、塾は四か月、副職は一年半、続いている。八年間同じところに住み続け、実家から持ってきたジャスミンやスパッティフィラム、記念に親から貰った珈琲の木・アジアンタム・アスパラガスの寄せ植えも、相変わらず元気である。なんだかんだいって友人関係も長く続く。歴史が好きである。しょっちゅう反芻する。恋は短くも長くもあるけれど、やはり変化に弱い。長く続けたい思いが強すぎるのかもしれない、同じ状態を続けようとしすぎるのかもしれない。今日のポットが割れたみたいな衝撃は恐怖だ。やっぱり、想い続ける。
ずっと、ひたすら皺や輪郭をなぞり続けることが苦にならない。意外と単純作業もきらいではない。僕の使用する画材は、終にペン一本になってしまった。たまに水彩とかインク。あとはカメラ。ミニマルである。
続けると云う事。習慣。意外と僕はたんたんと続けているのかもしれぬ。基本的にはやはり、不器用なのだ。不器用だし、遅いのだ。じわりじわり、少しずつ、馴染んでいくのだ。長い目でじぶんをみるしかあるまい。
完全に保守的なのだけれど、意外とその「古さ」と「執着」が繋がって積み重なることで有り得ない拡がりと「新しさ」が拓かれると思っている。