技術屋と四角四面






・副職。『砂の女』を再読、読了。荒川修作デュシャンに就いてと、近藤譲林道郎。そして安部公房。繋がる糸。ほつれる糸。地図。ピカビア。


・昨日久しぶりに画廊を回って、改めて思う。日本の美術家には技術屋さんが多すぎる。思索家が少なさすぎる。結局現代美術でも、技術屋さんばかりである。美術家に、「インテリ」を志向している人間が殆ど居ないと云う状況は、実は酷く深刻な状況だと思う。そもそも思索以前に、美術の内部の出来事や技術以外の様々な知識に対する好奇心や関心が、決定的にない。
インテリジェンスはキュレーターに任せきりと云うような。併しキュレーターはキュレーターでインテリジェンスと云うよりも、今度は頭でっかちで四角になりすぎて居るひとがめだつのもまた問題だけれども。これも完全に仕事や美術の知識に特化されすぎて居て、話していてつまらないひとがおおい。
要するに、専門馬鹿になりすぎないことだ。もちろん専門を疎かにしないことを前提に、その専門を深めるためにももう少し広い知識を身につけ、原理的な思考を少しでもこころみていくことなのではないかと思う。



美術手帖をみてみると、六十年代後半から七十年代前半にかけては美術家も評論家も、対等に思考哲学を開陳しながら必死に原理的なものを捜していこうと云うようなベクトルがおおいに感じられる。総合的に大きな視野から、根本的な問題から美術をみている。誰もがじぶんのスタンスの確固たる輪郭を持っていて、何故「美術」をやるのか、やる必要があるのかと云うのを徹底的に試行錯誤した結果、ミクロからマクロまでの視野をもって美術を語り、思索出来て居る。
ところが七十年代後半になると途端に、世界の美術市場がメジャーで、日本の美術はマイナーと云う意識が前面に出て来る。ここに今のプレゼンアートの源流をみることができる。
もう少しこの辺は、感覚的にだけではなく、具体的に徹底的に調べてみようと思う。




・購入
マルセル・デュシャン遺作論以後』 東野芳明著 美術出版社