一日ずつ仕事をこなす




・なんだか一旦口を噤むと再び開くことができなくなることがあるので、とりあえず打とうと思ったときに打ちこんでおく、今打って居る文章。


・夜中の三時である。三月は色々移り変わりの季節であり、どこもどたばたしているので、慎重に焦らずに行動して居る。焦る気持ちもあるけれども、そつなくこなすところはこなし、いなすところはいなしながら、新しく何かやるものとか変化するところなどをしっかり定着させることに重点を置く。
やっと暖かくなってきたと思ったら本格的に花粉症がひどくなり、それでぼうっとしているところもあるのかもしれない。


・毎日ちょこっとずつ仕事がある。木曜日南行徳、水曜日鎌倉、火曜日副職、月曜日南行徳、日曜日風景画教室。土曜日は仕事ではないがアラザル呑み、吉祥寺。MRYとdhmoと。月曜日は西田博至の講義。今回は美術論で、グリンバーグの『モダニズムの絵画』を精読。一文一文重要な箇所を根本から問い直しながら、思想をフルに展開させていく。非常に素晴らしい講義である。





・日曜日は某美術団体の勉強会に出席。六人ばかり出席していたが、親分肌の人が社会派美術評論家と二人で残る人々に講義啓蒙しているような感じである。勿論博学経験豊富なのは悪い事ではないが、やたらそれを必然性なく語られてアピールされつづけてもどうなのかと思う。結局この二人は何が云いたいのか何がしたいのか全くみえてこない。敢えて云うのであれば、「俺はこれだけ権力も知識も経験もあって、すごいんだぞ!ほら、これだってあれだって、何でも知っている。お前らは無知なんだから、そう云うのちゃんと知れよ。俺様が喋ってやって居るのだから、拝聴してあたりまえなんだぞ。先輩なんだし!」と云うようなスタンスが一番云いたかったのではないかと思ってしまう位であって、議題そのものに関しては、結局まとまった思いと云うのが伝わってこなかった。誰かが何か云い始めようとすると、すかさず自分の語りに戻そうと必死であった。何故そんな自分(達)だけで話したいのかよく判らない。

それにどんなに不毛な語りでも、講義や対談・ゼミと云った形式や名目であればまだ納得もいくのだけれども、そもそも私はこの二人だけの授業を拝聴するために来たのではない。その団体の人々の思いをそれぞれ表明し、それをキャッチボールしながら「議論」が展開していくのだと思って居たのである。何故なら、SMに「その美術団体で今度何人か集まってみんなで勉強会をやる」と云う風にきかされてきたわけだし、その時に講師が誰だとか彼だとか聴いたわけではない。

あまりにも腹が立ったので途中から他の人に話をふって、その二人だけのありがたくも閉塞感溢れる「講義」の時間をたちきることに専念した。少なくとも私はたといどんなに経験や知識を持ち合わせて居たとしてもああも屈託なく上から目線で美術家同業者連中を啓蒙なんてできやしない。どういう観点からその絵をいいと思うのか悪いと思うのかもあまり語られることがなく、彼ら二人の評価がそのまま前提になって、ずるずると話が拡がっていってしまう。他の人たちの評価は無視されたままで。彼らは知識や経験があるから、彼らの評価だけが貴重なものであるかのように。社会派としては随分無自覚にヒエラルキーを創っているんじゃないの?
・・・面白いのでまた声をかけていただけるのであれば是非参加させていただきたいとは思うけれど。でも、思ったことは云わせていただくし書かせていただくよ。出入り禁止になったらそれまでですが(笑)


・勉強会が終わってからも親分のマシンガンのような知識・経験トークが延々とつづいていたけど、随分つっこませていただいた。でも、吞み会では同じようなスタンスでも全然ありだとおもう。それに、それはそれとして、とても愉しく呑んだ。結局こちらも屈託なくこんなことを正面から云えるのであるからして、良い人たちなんである、屈託がなさすぎるだけで。