ひとの写真に就いての断想




・知り合いの写真を観ていると、なんだかとても複雑な気持ちにさせられる。物凄く上手くて冴えている写真も少なくなく、何枚か、これはやられた!!凄いな!!と云う写真がある。特に最近の写真はとても良い。
併し乍ら、凄いなあと思って全体を(何十枚か)見続けて居ると、どうしても何とも云えなく気分が余り良くなくなってくる。つまり、あまりに写真らし過ぎる処が鼻に付いて居た堪れなくなるのだ。メカニズムが余りに出過ぎて居たり、こう云うショットが「現代写真」として「良い」「上手い」のであると云うような、ステレオタイプと甘ったるさと技術による強制力がどこかしら漂っており、それが気持ち悪くなってきてしまう所以だろうかと思う。かなり面白い視点をみつけて居るにも拘わらず、なのだ。
技術が前面に出過ぎると、折角の冴えが途端に気色悪くすり替わってしまう。吃驚するような冴えを見せるのに、やっぱり根本的なところはあくまで「カメラマン」の上手い「写真」であって、決して「藝術」「表現」ではないように思えてしまう。寧ろ、「藝術」的「感性」が決定的に抜けた儘、上手くなって居る。非常なる努力で此処まで上手くなった現代写真マニアと云った感じがどうしても纏わりついて居る。
努力と技術と、そして知性とセンスの一部は驚嘆するところも有るにも拘わらず私は全体としては、どうしても好きになれない。わざとらしく感じられてしまうのかもしれないし、物語でありすぎるのかもしれない。また、私は彼ほど、カメラと云う「機械」が好きではないと云うことも感じる。写真新世紀で入賞したりして居る大半の写真がどうしても好きになれないのも、そう云うところに起因して居るようにも思う。彼も私も同じように日常的なところ(彼は「所」私は「処」)を写真に撮り、恐らく同じように撮って居るにも拘らず、何か根本的な処から「断絶」を感じてしまうのだ。
併し、彼なんかは比較的容易に「有名」になる気もする。(東浩紀的な視点で云えば)一見すれば、「才能」があってとても「やる気」があるように「みえる」からだ。「賞」か何かにでも「応募」して居るのだろうか。「がんがん」出したら良いと思う。どこかに引っかかって「デビュー」も「夢」じゃないよっ。
http://www.flickr.com/photos/28306693@N03/page1/




・黒川直樹の「写盤」は、暫く潜んで居た後の感覚なので、まだ洗練はされていないかもしれないのだけれど、じっくり観ていくとやはり彼の質のようなものがじわっと浸み込んできて、それが心地よくなってくる。何となく馴染んでくるし、眼が暗順応と云うか黒川順応してくるとその世界が安心できるところなのだと云うことをひしひしと感じる事が出来るのだ。彼の復活は喜ばしいことだし、何よりもその安心感が戻ってきたのは私にとっても非常に有難いし心強いのだ。これからまたどのような風に変化していくのか愉しみである。微妙で繊細なのだが肚の底から出てくるような勁い鈍さ。そのなかに断片的な魅力の閃光が、心地よく迸る。彼の写真はあくまで技術でもない、物語でもない(物凄く繋がっては居るが、それは別問題である)。況してや絶対に写真家の「写真」ではない。ベクトルは、云うまでもなく「表現」である。
http://shaban.seesaa.net/
そう云えばアラザルのtumbler、「アラザルTumblru」も不思議なくらい気持ちが良い。結構露骨なエロ写真が延々と続いていたりするのだが、全然べたつかないと云うか、ずっと見ていても、毎日観ていても、気分が悪くならないし飽きないし、食傷気味にもならない(私は、不思議にエロいとも思わないことがある)。いやらしくない。気持ち悪くない。こんなところがアラザルの根本的にセンスの良いところだと思うし、だからやはり私はアラザルの同人なのだなあとか思ったりしてしまう。全然感性の違う人が二十人弱も集まっているのにも拘わらず、その根本的な処は、不思議とはずさないのだ。
http://arazaru.tumblr.com/








・こないだ観た「マウリッツハイス美術館展」で再確認した。レンブラントも、フェルメールも、ヴァン・ダイクもベラスケスも、意外とおおざっぱだし、なかには殆ど失敗なのではないかと思うほど思い切りデッサンが狂って居るものもある。気まぐれな筆致もある。上手いだけで云うならば、彼らほどの巨匠ではない絵描きの静物画等のほうがよっぽど細部は「上手い」し、正確であるものが多い。にも拘らず、矢張り、レンブラントフェルメール、ヴァン・ダイク、ベラスケス、ブリューゲル等の絵は圧倒的に魅力的であるのを、再確認した。