メモ






・冬期講習が終わり新しい仕事に応募したり、別の仕事のオファーが来たりして、良い方向のベクトルになりつつある。勿論まだ何も固まっているわけではないのだが。


・8日はTDと荻窪で呑み。夜dhmoから電話が来て、TDと入れ違いで荻窪で呑み。そのあとdhmoとHSと高円寺で呑む。結局この日は、14時から午前3時まで11時間くらい呑み続けたことになる。9日は二日酔いが厳しかったが(長い時間でトータルで多量に呑んだ二日酔いと、短時間に多量に呑んだ二日酔いでは、長い時間の方が実に不快な気持ち悪さが1日続くと云うことがよく判った)、鎌倉の絵画教室へ。勿論その期間は大丈夫に、ふつうに元気よく快く振る舞ったが、そのこと自体が非常に体力の要ることではあった。つまり、教えていたりしているときは気を張っているので大丈夫なのだが、終わって独りになった途端非常な疲れを覚え、気持ち悪さが戻ってくる。
夜、二日酔い醒ましには春木家の中華そばが一番良いと判断し、食す。効果覿面で、夜には何とか立ち直った。10、11と独りで家の中で片付けや整理等をし、また読書や写真整理等を久しぶりに行う。






・「思いの強さ」や「意志」は或る意味必要な機動力でもあるが、併しながらそれがじぶんの「欲求」や「希望」「理想」が主体にすり替わった時には、その出てきた「もの」は、じぶんの思い込みの強い「押し付け」に変化することがある。気持ちが昂ぶりじぶんの思い通りになっていないことに苛立ちを隠せないことがあるが、それを其の儘出してしまうと、「思いの強さ」がじぶんの「欲求」や「希望」、「理想」の「押し付け」に変化していることがある。特に他人に何かを伝える時に於いては気を付けなければいけないかもしれない。「思いの強さ」が主体になり過ぎるときは、あらゆる細かい要求を相手に押し付け束縛してしまうことにもなりかねない。


・私の場合は「みる」「視点」、「切り取る視点」。「直観」、と、其処から「思考」して再びその「直観」を排出する。その過程に於いて、肯定でも否定でも「思いの強さ」をも同時に排出してしまうと、その「みる」「思考」「直観」のクリアさ、透明さ、キレのようなもの、がそれによって、曇ってしまう場合がある。
併し、「思いの強さ」や「思い込み」のベクトルもまた強いのである。但し私の場合はそれが「執着」にもなるし、「押し付け」にもなってしまうと云うことだ。併し、だからと云って完全にその「思いの強さ」つまり「執着」を捨てることは難しいだろうと思う。それが「原動力」になっていることもあるだろう。だから、それを全部捨てようとしたり安易に「達観」しようとしたりするのではなくて、それすらもメタな「視点」に於いて、「じぶん」から、切り取ればよいのであろう。併し、それもどうしても出来ないときは、無理やり押し出すのではなくて、たぶん、保留し保存し、熟成発酵させ、後から余裕のある時に適宜少しずつ「切り取る」と良いのかもしれない。熟成させたものは、往々にしてそうは一遍に多量に食べられないものだから、少しずつ。



・失敗を恐れない、少々洗練されなくても、出してしまえるときは出してしまうことも良いことだと思うし、ドローイングやエスキースなどの素描的なものは大好きなのだ。併し、「思いの強さ」や「執着」「理想」をも其の儘未分化に「視点」「切り取り」と一緒に入れてしまうと、不思議と押し付けがましく厄介な「だけ」のものに観られてしまうと云うこと、また、中途半端なものとみなされてしまう可能性があること、は頭に入れておいたほうが良いだろうと思う。
私が「焦慮」しないほうが良いと自分で云い聞かせるときは、往々にして、この「思い込みの強さ」が其の儘「視点」に入り込まないようにしよう、と云う事を云い聞かせているのではないか、と思う。


・矢張りなかなか「弱点」は治らない。併し、反復して何とかそれとしっくり上手く付き合おう、いなし方を覚えよう、と意識することは大事であろう。前よりはだいぶしっくりはしてきているのだから。