4.プロセス自体の魅力。そして「超意味」



そうした前述の写真絵の追求を続けるのと同時に、非常に私的な、断片的なドローイングを多く水彩紙などに描くようになりました。今までの作品が「視点を変えてものを観る」ことを色々な形で提示することで得られる喜びだったのに対して、自分の内面的な嗜好、志向、思考が直接的に湧き出し、自分でも不思議な形態やモチーフが現れてきました。


それは今までの、客観的に作品対象を「観て」提示した作品とは、かけはなれています。しかしむしろ自分の固定観念やどうしようもない嗜好が前面に出て来るのを敢えて認識することで、かえって行き詰りつつあった自己を解きほぐす作業となりました。
また、それまでは作品を創るということに対して常に「完成」された成果を求めていましたが、そこに向かうプロセス(=模索すること)や思考自体にこそナニモノかが生成する魅力が潜在していることにも気づきました。


完成された「意味」以前の、自分でも何であるのかよくわからないようなものを、紙とペンとドローイングという非常にベーシックで簡便な素材を使い、吐き出していく作業。それを続けるにつれて、日常における自分自身の中にも、「概念」を覆すような割り切れない感覚や、問題が沢山あることにも気づかされていきます。


 また、ものごとを考えてみれば考えてみるほど、なかなかどれが正しいものでどれが正しくないのか解らなくなってくる。そうすると、割り切って「これはこういうことなのです」というような明確な回答を出せなくなってくるし、信じられなくなり行き詰る。しかし、そういう明確な回答というものだけではなく、割り切れないような、解決し切れていないような問題を、徹底的に追求している(足掻き続けている)状態そのものも、実は大変魅力的なことなのではないでしょうか。


僕は最近そのような状態のことを、「超意味」というように名づけ、不定形な魅力や、境界線上にあるような感性を、即興性の高いドローイングを中心とした表現で追求していっています。



       


「超意味形態1」 ドローイング・水彩紙/2010     「不定形飛行連続物体」写真プリントにドローイング/2010