気のおけないすばらしいなかまたち



・自分で表現できないときと表現できるときの波というのがある。どんどん自分の意見を人に言っていけたりするときとそうでないときとある。そうでないときは、ひたすら事実の羅列になりがちである。


・土曜夜、MRYから電話あり。高円寺でMBと呑んでるからおいでよ、との連絡。十時過ぎ、行ってみるとouiもいて、なかなか気のおけない組み合わせで、非常に楽しそう。あんのじょうとても盛り上がる。ouiいわく、MRYが結婚してなんか全然違う感じになったと発言、僕もそれに賛成。いちばん心のねっこのぶぶんが、「安心」になったんだなあとおもう。今まではMRYといえば、「不安定」だと思っていたのに、そういえば、いつのまにかしっかり本質的に「安定」した人物になっているではないか。これは驚きである。

・「性」の話になったけれども、面白い解釈になる。男にとっての風俗という話と女にとっての自慰と、意外と似たような、ある種の「うしろめたさ」感みたいなもんが発生しているのではないかという話になる。つまりは両方とも「必ずしも万人がするわけではない」(個人によってばらつきが大きい)ものだからではないか、と。例えば男にとっての自慰というのは、大体万人がするものであって、そうかんがえると女の人にとっての「生理」と近いものであるかもしれなくて、定期的にはきださなければいけないものに近いものであるのに対し、もしかしたら、男にとっての風俗通いと女の自慰というものはどちらかというと「生理」よりも個人の「嗜好」に近いものなのではないだろうかというふうな話になる。これら「嗜好」は、酒やタバコのようなものに近い感覚なのかもしれない、とみんなでいちおう仮定してみたりした。かなり暴力的な推論だが、なんか納得が行くような気がした。
ただこの話は、「文化論」や「規範」「倫理」の問題、はては「キリスト教的なもの」の問題など(自慰に対するうしろめたさや罪悪感などの感性などは特に)とも、とても繋がっているところもあって、真剣に思考すればするほどナイーヴで微妙なものだし、また誤解されやすい問題でもあると思う。

・ちなみに、最終的にMRYと、風俗に行く人と行かない人の嗜好や感覚の違いはナンだろうという話になって、行く人と行かない人はそもそもセックスの概念からして、実はまったく違うんじゃないだろうかというふうにかんがえてみたりした。セックスをスポーツとして捉える感覚があるかないか、とか、視覚的な問題なのか触感的なものなのか、文学的なのか(言語化して欲情するのかそうでないのか)、とか、ふたりでつらつらつらと思考してみる。


・何かを限定することの責任。「責任ある限定」