雨の中。




・きょうは雨の中、夕方から大学の授業の打ち合わせ。震災でだいぶ授業が遅れていたが、やっとこれも始まった。授業終了がなんと八月五日だと云う。暑いのかな、冷房付かないのかな。松屋豚めし大もり。


大塚英志の『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』を読み終わったので、『サブカルチャー文学論』に遡って読む。「三島由紀夫とディズニーランド」など、また、非常に興味深く読む。





・大相撲の七月場所が通常開催されることになった。NHKも中継することになった。まことに嬉しい。それと、大塚英志の『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』を読んで、そして菅内閣不信任案否決。つらつらと感じたこと。



・「正しい」来歴だけが生き延びられるなんて云う馬鹿正直なよのなかには反対だ。「なんとなく」と云う部分はどんなに綿密しても分析してもなくならない。ただ、それを絶対肯定したり絶対反対したりすることはない。
どんな「正しい歴史」でも任意に切り取られ繋げられたものでしかないのである、どんな「間違った歴史」でも同様である。


憲法でも靖国神社でも君が代でも天皇でも、はたまた大相撲でも、或る論理で話せば、「正しくない」ことや「隠蔽された」ことはいくらでも出るだろう。だが、そのことだけを論って、だからそれをすぐに潰せ、根底から改革するべきだと云うのは暴論であると思う。だからといって逆に、「強制」には絶対反対だけれどもね。
相撲が「国技」として明文化されたりするのは反対であるし(いまは笑い話にしかならないかもしれないけれども)、相撲は神事なんだとかスポーツなんだとか興行なんだとか、わざわざひとつのジャンルに押し込める必要も感じないし、穢れた団体だし税金の無駄だし意味ないから公益法人をはずして「国技館」から追い出せ、なんて云うのにも当然ながら反対だ。


・「何となく」国技として認知されていた、と云うこと、その「何となく」の経緯をしっかり認識し直すこと、そう云う作業はあってしかるべきだと思う。
たしかによく経緯を調べていけば、たしかにその「何となく」は、欺瞞だとか詐欺だとか云われかねないところにもあるかもしれない。しかし、だからと云って私は「国技」を騙るな、なんて云う結論を性急に出すのは非常に野暮だと思う。たとえ不純なところがあったにせよ、それでも、「何となく」国技だと「認知」されてきたと云う「事実」は取り消せないし、いきなりそれを抹消して国技ではありません、なんて「決める」必要もない。
「国技」でなくなるときは、強制的に国技なんて名乗るななんていわなくても、自然にだれも「国技」だと思わなくなる時だ。ただいっぽうで、相撲を「国技」として正式に認定したりして国民にとってつけたように強要するのは、最悪だとも思う。
今はそんなことはないと思うけれど、「美しい日本」や日の丸の起立や君が代の強制などの事象をみていると、いつ反転するか判らないのが怖い。そうなってしまったときに、大相撲はほんとうに「仮構」の「大文字」の歴史として正式に捏造されてしまうだろう。


・今あるものはあるのだ。基本的には、それでいいのだ。大相撲や、憲法天皇靖国神社や日の丸や君が代は、そして「日本」は、「負」の歴史が沢山あるだろうけれども、だからと云ってそれを必要以上に恥じ続ける事はないと思う。強制的に無くしたりむやみやたらに性急に改革させたりすることはないと思う。しかし、また、それを強制する必要はどこにもない。みだりに定義しなおしたりするのもどうかと思う。
こう云う類のものは、必要とされなくなったり感性がずれてきたりしていったとき、もう少し自然のなりゆきで徐々に、スムーズに、無理なくなにかべつのものに移り変わったり、縮小されたり、ときにはなくなったりするだろう。(反対に、増大するときは、要注意だが)。
ほっておいてもなくならない、変化しないうちは、良くも悪くも、まだそれが必要とされているのだと云うことだ。

・強制的になにか改革する必要もないし、称揚したり強制する必要もない。云うとすれば、『もう少し長いスパンのものであろう』と云うことくらいか。
或る程度、放っておけばよいと思うと同時に、それらについて今一度いちから考え続ける事、認識し続ける事が必要だと思う。長いスパンをもって、いろんな角度やみかたや立場から。教育などでは、洗脳するのではなくて、まず、日本とは何か?と云うように、根本問題から色をつけることなく、抽象的な問題として、考えさせることが重要だと思う。
性急になるなかれ。




・政治もそうだ。もう少し長いスパンをもって、首相を批判して辞めさせるばかりだけではなく、腰を据えて見守ることも必要だろうに。これでは、実がなるものもならない。