引込線







・KNと航空公園で行われている「引込線」と云う展覧会に行ってくる。航空公園からまた歩いて十五分くらいのところにある第一会場、そしてそこからまたそれくらいの距離を歩くとある第二会場。不便なこと極まりない。しかしながら、場所を交渉して借りて、多くのアーティストや評論家などをとりまとめて、開催にこぎつけると云う努力は並大抵のものではないと思うので仕方ない。それにほんとうはバスも通って居るので、わざわざ歩いていかなければそんなに不便ではなかったかもしれない。
そんなこんなでえっちらこっちら暑い中を歩き、第一会場まで辿りついて観たものは、まさに何も云えないくらいなんのとっかかりもできないような、のっぺらぼうな作品群だった。場所は所沢市生涯学習推進センターと云う廃校になった小学校を利用した建物で、メイン会場は体育館なのだが、まず、何のためにこの場所性が強い体育館でそれらを飾るのかまったく意味不明な作品群が、まったく脈絡なく床に置かれている。それに、作品そのものもまったく何を云いたいのか、何を感じてそれを作ったのか、あきれるほど伝わってこないのである。これには困り果てた。


第一会場の中でいちばんの巨匠は遠藤利克で、この巨匠はプールサイドに、看板である焼いた木のオブジェを設置して居るのだが、設置している位置があまりしっくりきていないところであった。この巨匠はもの派の主役級と目されている方だが、あまりうまく空間との関係に折り合いをつけられていないように感じられた。ものとものとの関係を重視し、現象学的に其処の場所の地平を拓くのであれば、この設置はあまりにも成功して居ないように思えてしまう。残念であった。
第一会場には他にも十人ばかり展示していたが、何のためにわざわざここに飾ってあるのか、そして何の形態なのか全く判らず、要するにあらゆる意味に於いての必然性がないように思えてしまうひとばかり。背後にはなにか思想なり哲学なりが夫々あるのだろうが、全くそれを訊かなくてもある程度作品自体に説得力がなければ、やはり良いとはいえない。全く彼らの作品を知らない人の気持ちを動かすようでなければ、身内の狎れ合いと云われても仕方ない。良い作品と云うのは、コンセプトなど判らなくても、やはり魅力的だと感じてしまうのである。いくらコンセプチュアルアートであっても、それはおなじである。
とにかく、深遠なるコンセプトが判らなければ馬鹿だと云わんばかりの作品群が、非常に不親切に、そして何のために其処に飾ってあるのか全然考えられていないようにみえるまま、投げ出されていると云う状況は、あまりにもしんどい。「インスタレーション」と云う事をもう一回しっかり勉強し直してもらいたいくらいだ。


第一会場があまりに酷い状態だったので、第二会場も率直に云ってしまうとそんなに素晴らしい出来でもなかったかもしれないが、よっぽど良かった。少なくとも作品として成り立って居るものが多かったし、其処で展示して居ると云うことの意識を持って作品を設置しているひとが多かった。当たり前のことだが、これはかなり重要である。
第二会場は、旧所沢市立第二学校給食センターと云う、給食を作る特殊な機械が沢山設置されている場所である。空間自体が非常に強いオブジェであり、魅力的なため、否が応でもそれを無視した作品は創れなかったとみえる。もの派の文脈らしく、空間や場所、そこにあるもの自体を意識した作品ほど、魅力的に思えた。其処では、ひとりよがりに空間を無視したコンセプトを通さないほど、良い作品である率はグッと高まっていた。場所にかかわらず、自分の主張だけがいいたい作家は、こんな場所でやるのではなく、ニュートラルなホワイトキューブで堂々と個展すればよい。作家の選定は、有名か無名かとか、おなじ派閥だからと云うのではなく、場所に対するアプローチの仕方で決めたらよかったのではないか。


総じて、オブジェ的な強度が非常に強い場所であえて展示をすると云う事の難しさと云うことを痛感した。殆どそれに尽きる。場所との対話。






・第一会場から第二会場に行くまでの間にあるマックで昼食。帰りも第二会場から歩いて航空公園駅に帰る。駅でお茶。今日はKNと非常にたくさんのことをたくさん喋ることができた。それがいちばんの収穫。


・夜は大河ドラマ視聴。NHKが二十六時間の特大企画で震災特集をやって居る。今日は9.11から十年目。併し大事なく一日は過ぎようとしている。