恥ずかしさに就いて




南行徳の仕事。雪が降る。伊藤計劃の『虐殺器官』を読み終える。



・文章を書いて何かに掲載すると云う事は、かなり怖いことである。もちろん美術だって発表するのは怖いことなのだ。それは評価すると云うのも同じであるし、何かを表現して発表すると云うのは簡単なことではないし、寧ろ非常に恐怖である。きょう、ama2k46がツイッタ―で「評価するってことはぜんぜん簡単なことじゃない。評価しているじぶんの目玉、知識、経験その他もろもろがぜんぶ出るわけで。」と書いているがまさにその通りである。
円城氏が芥川賞を受賞し、彼のインタビューが載っているアラザル二号が俄かに注目を集めつつある。同じ二号で私もアラザルに初めて原稿を書いて発表した。MRYに書く?と勧められたのは締め切り一週間前で、しかし軽い気持ちで書いた六千字程度の文章であった。結果すいすい淀みなく書けて、それなりに知識などをちりばめ、読み物として少しばかり面白いものにしたつもりだった。なんだか良い気になっていて、小賢しくアラザル諸氏の文章に対しても好き勝手評価して喜んでいた。今となっては随分恥ずかしい文章だったし、恥ずかしいスタンスだったし、やはり「小賢しい」と云うイメージが適当なものだったと思う。
掲載してから徐々に判って来る、その痛さ。恥ずかしさ。もどかしさ。そう云うものを経験して、三号目、「本気」で書こうと気負い過ぎてまた失敗する。失敗すればするほど、もう絶対にいいものを書かねばと思う。負けず嫌いなのである。四号目。まず人のことを云々云うよりも、じぶんのことをみつめなおそうとおもった。じぶんの原点をみることにする。必然性が少しでた。dhmoに、「俺なんかじぶんの小さい頃なんて恥ずかしくて晒せないから、或る意味すごいよ」とかなんとか云われたが、僕にとってはかえって少しばかり、二号三号の恥ずかしさのようなものではない感触であった。併し、じぶんのことばかりではどうにもならない。そこからまた進まねばならない。そしてじぶんの原点を少しばかり見つめたからと云って、それで良しと云うものでは全然ない。
五号目、六号目。併し書けば書くほど怖くなっていく。三号目のような失敗、と云うような感じではなくなったが、どんどん、人の目に晒されると云う事が怖くなる。併し、それを払拭するために、なおも書き連ねていかねばならないと思う。恥ずかしいことを恐れては進めないが、恥ずかしい事をどんどん認識してきてしまう。恥ずかしくならない、じぶんでも納得が少しでもいくものを、と思う。
無神経と無自覚がもっとも恥ずかしい。無難になるのも恥ずかしい。打ち破れる方がまだましだがそれも恥ずかしい。いろんな恥ずかしさが在るにもかかわらず、書く。