メモ




・狂気を、如何にじぶんが狂気に陥らず、併し狂気のままであることを統御できるか。


密教顕教かといったら私が求めているのはやはり密教的であるだろうなと思う。空海最澄と云ったらやはり空海である。やはり密教が最奥の妙であるのだ。唯空海的な体系のようにあまりにも隈なく柔らかい部分まで統御してしまうのは、かえって閉じたものになりうる。なにか欠けている、ずれている部分を残す必要があるのかもしれない。のちに天台宗比叡山が仏教の総合大学として栄えのちに多様な新仏教が生まれでたのも、最澄と云う開祖自身の資質や、最澄が持ち込んだ知識や文献が何か決定的に「未完成」だったからと云うものが大きいだろう。空海の、限りなく宇宙的で全能的であるのに、閉じた構造と云うのは、何かしら考えさせられるところだ。


・じぶんの中のアポロン的要素とデュオニュソス的要素を束ねるのは、結局デュオニュソスを極限まで極めるアポロンなのである。結局、どんなかたちであれ、徹底的な統御されていなければほんとうの狂気に陥ってしまうのだ。写真の場合は、機械が「徹底的な統御」を担保する。狂気に限りなく近い処から理性的な処まで幅を存分に拡げた中で遊ぶことができる。酒を呑み過ぎて狂うそれは、狂気がただただもれてしまうので注意しなければならない。酒に呑まれていると云うのは、デュオニュソスを統御し得て居ないと云う事だ。


・写真を撮るときは対象を暴力的にまで「主観的」なイメージに落とし込み、ある部分を徹底的に切り捨てることで強い引き裂かれた断片が生じる。それを徹底的に再構成する。併しその再構成であれ、如何に狂気のままでありつつ統御できるかが、ミソだと思っている。
・・・併し対象を此処までもかと思うまで冷たく扱っているのだ。冷たく扱うところと残すところの限りない執着?・・・
如何に既成概念の儘ではない、併し「生」の部分が露出して自律的に回りだすか。それをじぶんが外から「構築」するのではなく、中からあぶりだされてきたものを、如何に自律して回りだすように産助できるかであろう。


・ジャンルから抜き出た表現、思考。ずれをもった、不安定であるし不完全であるのに、無視しえないもの。そのなかで回り続ける狂気。セザンヌマティス