アラザルツイッター批評






アラザルツイッター批評を五月七日からはじめた。一応五月十日まで。以下掲載文。


[五月七日]
東京都現代美術館で五月六日まで開催されて居た田中敦子展に行く。田中敦子と云えば電気服に身を包んだパフォーマンスが余りにも有名であるが、こんなにも絵画群が充実して居ると云う事にまず吃驚した。
入院している時、早く退院したいという想いから制作したと云うカレンダーの作品群が一番最初に飾られて居るのだが、そこからして非常に繊細で知的かつ造形的にも完成度の高い作品なのである。

その制作を始めたきっかけが「退院の日を待ちわびて数字を順に書き、各数字の回りにクレパス(オイルパステル)で縁取り」をしたと云うのだから早速興味深い。

田中敦子が本格的に作家として覚醒したきっかけが、既成品であるカレンダーの「縁取り」からなのである。其処には「コピー」と「オリジナリティ」の<反転>が存在して居る。つまりは田中敦子と云う作家はその<反転>に起源(オリジン)を持つのである。

其処からし田中敦子と云う作家の或る種独特なエキセントリックな立ち位置と、デュシャンにも通底するポストモダン的感覚があるのだが、何より此処で一番重要なのは、レディメイドから「オリジナル」を引き戻す「縁取り」と云う作業によって作家田中敦子が生まれたと云う事であろう。

「縁取り」から始まる彼女の制作は、徐々に新聞紙や広告、その他様々な紙をコラージュした「オリジナル」のカレンダー作りに展開してゆく。

そのカレンダーに描かれた数字は、最早作家「田中敦子」の「絵」であり、ひとつひとつの「数字」、いや、「線」の中に込められた表情が非常に雄弁に物語っていて驚く。

田中は、「既成品」であったカレンダーや数字と云う記号を、まずは縁取り、そして繰り返し繰り返し変奏することで徐々に自分のオリジナルに消化吸収していく。そして最終的にはカレンダー/数字と云う機能や意味がどんどん剥奪され分解されていき、最終的には「田中敦子」と云う形が見えて来るのだ。

最終的に数字は完全に本来の「記号」としての意味を失い、「田中敦子」のあまりにもオリジナルな「線」の魅力として新たに立ちあがってくるのに驚く。その過程を非常にクリアなかたちで最初からみせつけられたこの展覧会には、最初からどきどきしてしまったのである。

本来「記号」と云うものは、如何に普遍的に伝達できるかと云う事で形作られてきたものであり「数字」等と云うものはその極北であろう。併しそのあまりに普遍的な「記号」から出発し、其処から「自己」を見付け出し、消化吸収して「オリジナル」を創りだしていく過程は圧巻である。

「記号」からの「オリジナリティ」をかたちづくると云う独特のスタイルは、田中敦子の画業全般にわたっての非常に強力な通奏低音になっており、後年の電気服とそのドローイング、絵画に代表される「丸」と「線」の集合体で形作られる作品群に於いても、それは云うまでもなく強力に作用し続けている。