メモ





・だいぶ心地よい日が続いたと思えばこの二日三日は酷暑と云うものに少しずつ近い環境になってきつつある。まだ暑さに慣れていないがゆえ我慢している間に熱中症になってしまいそうなので、水分補給はまめにする。だんだんと暑い環境に適応するためにまた身体をシフトしていかなければいけない。まだ三十四であるが、毎年この季節の移行とか、その「適応」に敏感になってきているような気がする。


・身体が十全ではないと、受動的にやらなければいけない仕事などはこなせるのであるが、自ら新しいことを始めたりすることができない。時間ができると気ばかりあせるだけで、普段以上のことをやると云うことが出来ない。三十になるまでは、寧ろ段取りを踏まずに新しいところに突っ込んで行って身のならない失敗を繰り返すことも多く、そのために自らの方向性が定まらず構築出来ない、そう云う焦燥感だった。併し今現在は、方向性は俄然クリアになってきて、或る程度の段取りも踏めるようになったのだが、昔とは逆になかなか発進できないもどかしさからくる焦燥感が募る。


・三日前くらいに得た飛躍感のような感覚は、昔はよく訪れた。但し次の日の朝になればなんでこんなにくだらないことで欣喜雀躍していたのだろうと云うほど色あせてしまうことが常だったが、現在はなかなかそう云う感覚が訪れない代わりにいったんそう云う感覚を得れば、次の朝になっても安定していて、やはりしっくりきているのだと思えることが多い。今回の発想や飛躍感も雲散霧消してしまうようなものではないように思うが、その代りそれを地道に実現するために日々のベクトルをしっくりさせていく作業はなかなか一朝一夕にはいかないなあと感じる。やはり鈍い焦燥感が身体の奥にしんしんと疼いて居る。ほんとうはこの前の「なぞり」シリーズだってまだ構想の一割も実現できてないのだから困ったものだ。二十歳くらいの闇雲さと今の段取りを組み合わせることはできないものか。いや、もう少し仕事等が安定すれば闇雲、と云うか、集中できると思うのだけれど。まあ、云い訳をせずに、まず、やろう。




・昔と比べると私自身のおおきな「ものさし」と云うか「核」のようなものが出来てきたのだろう。それが昔は全く感じられず根無し草のような頼りなさを自分自身によく感じたものだった。今はそう云う意味での頼りなさは余り感じなくなった。その「ものさし」が鈍麻している時とか何となく自信を無くしている時とかは勿論在るのだが、その「ものさし」が「無い」と云った頼りなさはなくなった。兎に角、弱まろうがどうだろうが、それは「在る」。それが昔のような意味での焦燥感が減った大きな要因だろう。但しそれが「在る」が故に、闇雲も出来にくくなっていることも否定はできない。



・ひとりの私自身。そして他人からみた私。学生からみた私、友人からみた私。様々な人から、組織からみて判断されている私。私自身のなかの能力や資質が、魅力にもなればそれ自体が困惑を引き起こすこともある。つねに私は揺れ動く。それは私のなかでもそとでも。作品でもそうなのに、ひとなのだし、そして生きているのであるから当然である。「差異」と「ずれ」により私は私でありながら常に揺れ動いている。或る人からみれば自己中だと感じられるかもしれない行動が、そのほうがじぶんがあって安心できると云うひとも居たりもする。また、全然そんなこと気にもしなかったと云うひとも居る。
全ての結果は上手くいくわけでは勿論ない。「ものさし」が比較的在りそれに自覚的に行動し判断していくからと云って上手くいくわけではなく、寧ろ短期的には誤解を得たり上手くいかない結果を生むことだって多くなるほどではないだろうか。
併し、なるべくじぶんの「ものさし」を冴えさせて、其処から立脚して尚且柔軟に行動することが大切だろう。其処から立脚することが大切だろう。


・ひとと喧嘩したり上手くいかなくなったり、はたまたは恋をしたりすると、往々にしてみえていた筈のひとの「貌」が突然全くみえなくなってしまうことがある。いくら考えても、また、考えてみればみるほどそれはみえなくなる。どうしても、そのひとの「ものさし」を想定し過ぎてしまうが故に、じぶんの「ものさし」で立脚し考えられなくなる。そう云うときは「在る」筈なのに、気が付くと無くしていたりする(いや、無くしているのではなく、何処かにほっぽった儘にして見失っている丈だろう)。また逆に喧嘩などすると、じぶんの「ものさし」のみに執着してそれを押し付けることにもなる。みえた積りになり過ぎていて、これもまた見失って居ると云える。
どちらが正しいのか等はナンセンスだろう。それは「ずれ」と「差異」の結果で揺れ動くわけで、固定されたものにはなかなかならないだろう。それをさも固定したかのように押し付けてしまう時に、破綻するのだろう。なにか、相手の「貌」がみえなくなったときには、それを「固定」しようと思うのではなく、みえない儘に、みえないと云うことを、熟成させていくのもひとつの手ではないかとも思う。


・正義とか、安定とか、幸せな未来とか、希求しすぎると硬直化する。固定化してしまう。そう云う固定化された理想を、「貌」のみえなくなった他人に押し付けるのは、矢張り芳しくなかろう。






・気付けば七月も十日以上も経った。専門学校も前期が終わった。六月や七月は毎年忙しいのだ。特に七月は忙しいのだ。だから、焦るのかもしれない。


・今日は久しぶりに朝から夜まで外に出る仕事はない。ゆっくりできた。昼散歩し、珈琲を啜り、相撲を観戦し、掃除し、買い物に行き、鍋を作り、このブログを打つ。これから、書かなければいけないメールや構想を書き、そして制作をしたいところだが、それが出来るかどうか。もう二十二時である。