インタートラベラー神話と遊ぶ人



2009年7月18日−9月27日 東京オペラシティアートギャラリー  (美術)


[展示名]:インタートラベラー神話と遊ぶ人
[作家名]: 鴻池朋子
[発表年]: 2009年
[ジャンル]: 美術
[場所]: 東京オペラシティアートギャラリー(初台)


「想像力という人間の根源的な力で地球の中心まで旅をする」という壮大な神話の構築を、鴻池は本気で目指していた。それは余りにも本気であり、神話の構築をする為にあらゆる手段を惜しまずに投入するわするわ。屏風絵、絵本、映像、インスタレーション、絵画、音楽。渾然一体となったそれらを適材適所に配置し、迷い込む観客をずるずる引き込み、吸い込んでいく。
部屋を経るごとに地球の中心部に、そして人間の深部にある「原型」の世界のようなところに引き込まれていくような生理的陶酔感。これはまず、圧倒的な四点の巨大絵画が四方の上面に飾られている部屋にてひとつのクライマックスを迎える。と、思いきやこれは序章であり、さらに地球の中心部を模した細長い道のりに「創世記」的な絵本が連続して配置されたり、走馬灯のような映像が流れていたり。。
思わず自分が死んでしまって、宇宙と渾然一体になったのかそれとも人体の内部に包まれたのか、そんな不可思議な感覚に襲われ、思わず涙が出てくるようだ。
最後のあのインスタレーションは、あの空間に入った瞬間、目眩と共に「あーっっ」という声を思わず叫びたくなるような「地球の心臓」がまばゆいばかりの光を放ち、その限りなく静謐な空間を超絶的に支配していた。。もうオレは、心の底からシビレテイタ・・・

そんな空間を構築しようとしたのであろう鴻池は凄い。かのリヒャルト・ワーグナーすら髣髴させる。しかし、この世界では、なんならもっともっと酔わせて欲しかった。民間である初台オペラシティギャラリーでは、そんなにお金をかけられなかったのかも知れない。時間もなかったかも知らん、限界があったのかもしれない。でも、この世界は、徹底的に人を酔わせなければいけない展覧会なのだ。徹底的に。これまでかというほど。
ディズニーランドもハリウッド映画も及ばないほどの完璧に閉じた「神話」を五感で感じさせるには、ちょっとした粗さが命取りになる。例えば屏風の絵のチープさ。「アクリル絵の具」「ポスターカラー」という素材感がそのままに、<伝統的>な襖の空間を埋めている。あれはドラマや芝居の大道具を舞台裏で思わず見てしまったときの、がっかり感に似ている。手品のネタ明かしをされてしまったようなバツの悪さだ。そして、壮大であるはずのクライマックス・「地球の中心」のインスタレーションの空間に蔓延る工事現場のような間に合わせの足場と欄干。天井の空間も、とてもそのインスタレーションのために配慮されているとは思えない造り。その後に現れる、水がちょぼちょぼ滴っているインスタレーションのしょぼさ。きわめつけは、神話の世界が終わった後に放映されている<神話空間を創っている製作現場>の映像。自らの大道具的なチープさをこれみよがしにみせてしまって、どうするのよ。会田誠的に最初から「神話」を嘲笑するようなスタンスであればいざ知らず、本気で「神話」を創ろう、というベクトルであるはずの鴻池には致命的になってしまうんじゃないの。
ただ、大道具的=映画の看板描き的な手法をとりいれているからこそ、あれだけ巨大な作品を次々に創り出せているともいえる。現に巨大絵画四点とも、その徹底的にクールな手法ならではの無駄のない描きかたが、壮大な「神話」の構築に対して決してマイナスになっていないし、絵本の原画のラフな感じも全く不自然ではない。要するに、どんな手法でも使いどころを誤らなければ決してがっかりはしないということだ。鴻池(またはオペラシティ)の惜しかったのは、「神話」の構築のためにクオリティを上げて臨まなければならなかったはずの襖絵や、インスタレーションの足場・欄干・天井をはじめとした空間構成を、おろそかにしてしまったこと。そして、それを自覚すら出来ていなかったこと(神話空間の製作過程現場の映像を放映するなど)。この二点につきる。

もうちょっとで酔えるのに。あともうちょっとなのに。もったいないの一言である。
もっともっと。もっと、鴻池さんは、「エンターテイナー」に徹しなければ。

鴻池朋子という巨大な才能とパワーと可能性を感じながら、「現代美術家」から壮大な「エンターテイナー」にすっぱりと生まれ変わった<コウノイケトモコ>を観てみたいという渇望は、日増しに強くなるのである。