論考11本レビュー!!



● 「起筆と意味」

アラザル初登場・板東の文は、まっさらな新雪を繊細かつ慎重に一歩一歩踏みしめていくような感触だ。あくまでものごとに対して新鮮・鋭敏な感覚でひとつひとつしっくりするまで味わいこんでいるのだ。その緻密な感覚で描写された華雪の「書」やタブッキの小説などが現前するさまは、まさに驚異というしかない。彼女のデザイン的美意識、そして「字」に対する徹底したこだわりというものが遺憾なく発揮されている、まさにアラザルの巻頭を飾るに相応しい視覚的新感覚クリティーク!!



● 山下望 「彼岸過ぎまでのラップ SEEDAのヘルズ・キッチンと、天国の門

ある意味最もアラザル的な、そして最も異端児でもある山下望が、またも奇想天外な組み合わせで送り出す大胆な説による「トンデモヒップホップ批評」!?「反復」するポテンシャルとは??日本語ラップの異端児・SEEDAの新感覚と明治の黒船到来を繋ぎ合わせようという、その強引なまでの論評はいつものとおり賛否両論の嵐になりそうだが、自分で創ってしまった限りなく困難な課題を珍しくマジメに(?)正面から受け止めて論じ切ったのにはビックリだ。山下の野生のひらめきと、日本近代文学のクリティークがリミックスされた、限りなくカオスで真っ黒な正統的異色評論。



● dhmo 「☆★☆may fXXkin’ fXXkin’ fXXkin’ die☆★☆」

これを批評じゃなくてなんといおう!柳原可奈子も真っ青の女子高生の会話かぁ、などとタカをくくっちゃあいけない。ひたすら続く「終わりなき日常」のまったりなんてするはずもない暴走会話がリピートし、カットアップされ、地獄のような朝の教室風景がひたすら高速度なまま抉り出される。いやおうなしに畳み掛けられる取り留めのない会話は、人間存在を限りなく無化し、あたかもポップコーンかキャンベルスープ缶のようにしちゃうんだ。もう一度云おう、これはれっきとしたスキゾな脱構築POP批評なんですよ。




● 畑中宇惟 「『放浪記』を語る前に考えること」 

畑中宇惟の視点は、単刀直入に鋭く切り込んでくる。今回の論評でも、「作品」という事についての根源的な問いを、いやおうなしに突き付ける。林芙美子の名が売れる以前の私的な日記を赤裸々にそのまま出版したような『放浪記』、そして実は意識的に絵を「仕事」として描いていた節がある山下清。一見対極だが、畑中は彼らの共通性として「作者の私性が作品の評価の邪魔をしている」と見抜く。これは、ロラン・バルトが云うような、「作者の死」で片付けられてしまうものなのか。それとも・・・もっと「先」が読みたくなる文だ。




● 杉森大輔 「大友良英、その演奏と聴取の諸相」

森大輔が贈る、知的に洗練された定評ある正統派クリティーク、第三弾!!今回論じるのは、限りなく多角的な音楽的実験を試みることによって厖大な音楽的地平を切り拓き続けている大友良英。その足跡と可能性の中心を探っていくことで見えてくるものは?その問いは、「我々を取り囲んでいる世界は無限に豊かで多様である。その世界と、私たちそれぞれが、いかにして出会うことができるのか。」という根本問題まで掘り下げられてゆく。杉森の文体自体は流麗だが、現されているものは実にエキセントリックなものだ。



● 山本浩生 「独白in批評 〜『1Q84』≠鴻池神話・<種明かし>からの省察〜」

山本浩生は語る。そして、語るとは総て、語りなおしのことである。山本は、村上春樹の『1Q84』と鴻池朋子を語りなおす。しかし、語りなおすとは、既存の語りをなぞってゆくということではない。語りなおしで最初の語りは変容を被り、その変容は語りなおされつつある語りへと還流し、その語りを不断に顛倒させ、迷宮に誘い込み、酒瓶さえ空っぽにしてしまう。しかし、それでも山本は巨石に追われるインディ・ジョーンズの如く語りを語りなおし続ける。追跡と迷走の果てに立ち上がってくる、『1Q84』と現代日本美術を結ぶ、「システム」とは、「がっかり」とは、何か!?



●  「装いについてのノート」
本来は裸でいいものを、衣服を着るということはどういうことか?という問いに始まり、ストリートスナップのブログモデル、そして役者・上野樹里を論じ、最後には犬童一心メゾン・ド・ヒミコ』で、ゲイの青年に扮すオダギリ ジョーまでを語る。衣服に支配され、衣服を凌駕し、雰囲気を身体がのみこむ。「まとう」ということは衣装だけではなく、「なにか別の人間」をまとうこともあり、「雰囲気」をもまとう。細間の文体は、うまれたばかりの赤ん坊の肌のようなきめこまかい「ひらがな」のまろやかな魅力を存分にまとっているのだった。



● 西田博至 「一柳慧のいる透視図 −−ニッポンの批評へ」(連載第2回)
アラザル西の巨星・西田博至の宇宙的グランドオペラ批評連載・第二回目!!実は今回の文章、まだまだ広大な西田・一柳新歴史観構築のための序章に過ぎぬのだが、既に、エベレストを突き抜ける程の圧倒的な大伽藍批評の片鱗が見え始めて居る。今回西田は、一柳慧と云う人物と繫がる巨大な歴史の源流を今一度探る可く、東京に降り立つた。そして彼は、「こんなにも」孤独な淋しさを湛えた、或る歴史的建造物の前に立ち尽くす。嗚呼、此れがほんとうの「廃墟」と云われるものなのだらうか・・・彼の源流を探る旅は、本格的に幕を開けた!!



● 阪根正行 「現代小説解読講義:柴崎友香『その街の今は』」

アラザルに鮮烈なインパクトで入団した阪根正行、渾身の第一作!!いやしかし、新人離れした明晰かつ爽やかな講義は見事です。柴崎の小説を基に「昔と今」「戦前と戦後」などという既成事実の対立事項を徹底的に再検証。さらには、柴崎が専攻していた地理学を鑑み、<場>についての考察。柴崎の文だけでなく、今和次郎オギュスタン・ベルク夏目漱石、果てはプラトンまで縦横無尽に援用し分析する。究めつけは超豪華なメンバーによる豊富な写真図版で、いっそうの説得力と重みを加えている。これは一本とられました!阪根、新人王か??



● 西中賢治 「我々の密室犯罪における一つまたは二つの考察」
深夜、真っ暗闇の中、既に放送が終わってしまったテレビを付けていると、突然その光に呑みこまれて窒息してしまいそうな感覚がある。そこには何も映っていないのに光っている/「目的や意味からますます遊離して不気味に歪む」それは、日々人間を馴化させ、空虚に翻弄させ、虚構の妄想とイメージに現実を凌駕させている、その本体だ。泉太郎の作品は「それ」を宙吊りにし、暴き出し続ける。西中賢治は、日々の激務の果て、或る意味現実より虚構に生きる自分を発見し、泉の作品に救いを求めたのか。モダンの灰燼からネオモダニズムの蠢きが、一筋の光明がみえたのか。



● 黒川直樹 「閨房の手ぐし〜杉浦日向子の百物語をよむ〜」
妖気漂う雰囲気を纏ったアラザルきっての長髪・黒川直樹がおどろおどろしく、執拗に、ゲリラ的に、断片的に、アラユル方向から、杉浦日向子を模索し、杉浦日向子と対峙し、杉浦日向子と格闘しながら、いや、百物語と格闘しながら、じぶんで百物語を紡ぎ、ほんとうに百まで語った、と思いきや、百物語は九十九話であり、残り一話はどうしたことか欠けており、黒川の百物語を読めば其の答えが書いてあるのかも知れず、やたらと興味をそそられる文章であり、妖気漂う黒川が妖気を相手にした百物語と対峙した、黒川の、百物語、日向子の。





レビュー文提供:山本浩生/西田博至(山本レビュー)