内的断片思考の「まとめ」



・拡散の時期と集中の時期があると思っている。ずっと「拡散」の方向に向いてきたのだが、ここにいたって確実に「集中」の時期になっている。それは二月中旬までにひとつやらなければいけないことの影響もあるのだが、三十一という歳にして、大きな自分の<幹>とはなにか、という根源的なところを追求して、自覚して、確立する時期なのだろうと思う。


昔勤めていた画廊や、展覧会や、横浜のメンバーや、アラザルや勤め先の専門学校、あらゆる仕事先などで、実に様々な人々と逢い、それぞれの人々のことを見てきた。そして個展もたくさんやった。本もたくさん読んだし、実に様々なことに挑戦して、自分をすごく拡められたというこの何年間だった。色々なことを前よりそつなくこなせるようになったし、バランスよい感じで進められるようになった。しかしやはり元はバランスが悪くて不器用な人間であり、いくら自分を拡めても何か根源的な問題は解決しないままきていたのだと思う。その問題を直視しないまま、意外とこの歳まで来れてしまったのだが、ここにいたって、その弱点がもろにでている。


人間関係も、ちょっとしたところで自分が無理しているのが今は判る。ちょっと前までは自然に振舞えていたり、気にしなかったところをいちいち気にするようになっている。バランス悪い、不器用な「感じ」が人前でも前面に出てきてしまっているのが良くわかる。
あれだけたくさん読んでいた本も、新しい知識も、今は全くといっていいほど必要としていないかもしれない。(この二ヶ月間、数えるくらいしか本を読んでいない。アラザルのメンバーと話していても、以前ほど「知識」で遊ぶことが快楽になっていない。そして、気がつくと「自分」のことばかり話している。以前はそういうことは殆どなかったような気がする)

そういえばその予兆は、アラザル3号の文章でもろに出ているかもしれない。なぜならば、自分の独白(内的自己)と、批評(外的・拡散的把握/認識作業)の、まさにその二つがせめぎあって、もつれている文章だからだ。だからものすごく判りにくい。多分この文章は、僕が「幹」を模索し始めている最中であることを端的に現しているのだろう。



多分、今は「評論」など、書きたくはないのだ、きっと。自分の内的な模索、哲学を追い求めているのだ。



現在は、自分の内的な思考や、制作では、今までにないくらい深まっていっている感じがする。それを大切にする。困ったことに僕は「寂しがりや」で「せっかち」の気質があるので、それが、これらのことを阻害するのだが、これを統御できるくらいまでの自分の哲学や制作の必然性を高められるいいチャンスだろう。というより、考えざるを得ない、創らざるを得ないというところまで来ている感じがする。



・最近、年齢とか、時期というものについて考える。少し年上の西ノ大兄や、同い年のOや、若いbやTなど、親しく付き合っている人たちの、そういうものと自分と照らし合わせてみる。



・それぞれ自分のことをやっていっていけばいいのだ。



・今日はこれから制作