『邪宗門』



高橋和巳 『邪宗門』上下巻 (朝日文芸文庫)読み終える。


色々なことが中途半端で、形にならないので(実行できないので)なかなか本も集中して読めない。しかしそういう中でも、この本は比較的ゆっくり読み進めたのはとても良かった気がする。

高橋和巳が約三年間全精力を傾けて創った畢生の大作で、どの頁にも人生の極限にまでいった思想と行動というものが詰まっている、描かれている。また、権力に媚びない、『主体的』な<自由>というものを謳うというのは、如何に魅力的で、また、如何に危険なことなのかということが非常にリアルに描き出されている。また、現代に於ける(もう現代とはいえないか)「宗教者」、特に「宗教団体の上に立つもの」の内面心理というものを、これほど赤裸々に、描けているものは見当たらないのではないか。(まあ、これはほんとに宗教に属している人に聞かないとほんとうに描けているのか、解んないかもしれないけれど。)

この物語は昭和五年から昭和二十一年までのじっさいの出来事と絡めて、一つの宗教団体が徹底的に弾圧されて完膚なきまでに滅亡させられるまでを描く。前述の、『主体的』な<自由>。徹底した土着性から生まれた日本的思想又は宗教の在り方・・農業や家族・血縁、土地、といった非常に現実的なものとカミとの連環的な構造を体現した日本における理想郷の考察と、それをほんとうに純粋にやり遂げたらどうなるだろうかといった、壮大な観念に於ける実験的考察。そして戦争や飢餓を通じて生と死に「実際」に直面したときに人間がとる行動や気持ちの変化。カミの「観念」などと現実の「行動」との齟齬。それぞれの資質にあった生き方と行動のとり方、それが年月の中でどのような結果を夫々に齎していくのか。そして多くの人たちが離れ離れになったり、違う立場になったり、またもや邂逅したり、永遠の別離をしたり、ともに死ぬことになったり・・・そして最後の最後に訪れる、徹底的に受動的だったものが、能動的にすりかわる瞬間。個人と関係、そして団体、大衆。行動。・・・まさに、「人間」、『宿縁』というようなことが、執拗かつ克明に描かれている。


戦前・戦中・戦後の混乱の中を縫うようにしぶとく、しぶとく生き抜く彼らの「意志力」と「思い」の深さ。<小説>だと解っているのに、まとわりついて離れないような禍々しいまでの生々しい「実感」感覚。このような怪物的な文書を産み出した高橋克巳とは、一体なにものなのだろう。この小説は、大本を基盤にしているが、さながら出口王仁三郎の霊が乗り移って、高橋にお筆先のようにして書かせたとしか思えぬ。

巻末エッセイに、文芸評論家の樋口覚が書いているが、高橋和巳は、三島由紀夫を好敵手として任じていたというが、この高橋和巳の『邪宗門』は、徹底的なまでの取材力は三島と互角、いやそれ以上といっても過言ではないくらいだ。それになによりも、三島の人生や<小説>は「美」に昇華するのに、高橋のそれは、徹底的に「実感」の感覚を心の深部に突き刺し、人間の基部・根底を本気で揺さぶろうとする。昇華することを徹底的に拒絶する、だから、これは小説なのに、小説ではないのだ、高橋があとがきに書いているように、「精神史」なのだ。

好敵手、というよりも、それは、ネガとポジのような表裏一体の関係だったのではないだろうか。
三島は、自衛隊に入り、超右翼として、1970年、45にして、自ら割腹する。高橋は、京大闘争にて全共闘を支持、1971年5月3日、三島の割腹の約半年後、39にして結腸癌で病死。


大阪万博、三島割腹。そして71年、アポロ月着陸、昭和天皇の原爆慰霊碑の参拝、密やかに高橋の病死。ここで、たぶん、このへんで、「戦争」は一区切りして、後は・・・