烏山秀直、大船大仏、その他この一週間



・なんだか、ブログをかけなくなってしまった、人にメールの返信を出来なくなってしまった。そんなときがけっこうある。書きたくないわけでもないし、返信したくないわけでもない。別に調子が悪いわけではない。でもできない。しかし、いつものことで、書き出した途端なんでもないようにかけるようになってしまう。メールの返信も堰を切ったように出来るようになる。これは不思議だ。返事しそびれている人が結構たくさん居るので、このブログを書いたら返信できるだろう。前までこういうことはなかったのに、だんだんそんな傾向が強くなってきたこのごろ。ブログはともかく、メールの返信くらいはしっかりしないと。



・11日月。Mと銀座キリンシティに行く。夜の銀座は間違うととんでもなく高い店に入ってしまいそうで怖くてあまり冒険できないのだが、このキリンシティはビールも食事も美味くて、感じもよく、そんなに高くはないので重宝する。 http://www.kirincity.co.jp/shops/109.html




・13日水。島忠。ベローチェ中野ブロードウェイ。久しぶりにあの禍々しい雰囲気を味わってみる。

・14日木。部屋の片付け開始。大掛かりにやる。たしかこの日、吉祥寺の画廊を何件か回る。専門学校の助手の展示と、元助手の展示と、元学生が働いている画廊と、Ongoing。Ongoingでは久しぶりに画廊のオーナー?の小川希君と話す。ちょうど展示は小川格という少しだけ顔見知りの絵描きであった。井の頭公園方面まで行ったが、井の頭公園玉川上水のひんやりした自然の、湿り気ある空気が心地よい。

・15日金。宇徳ビルオープニングパーティ。新しいメンバーが加わった共同アトリエや曽谷朝絵アトリエなどを中心に軽く訪問。 http://blog.yocosuca.com/?cid=40881




・17日土。風景画教室、恵比寿。昼食はタイ料理屋。解散後、トキアートスペースへ。烏山秀直、諏訪未知、油井瑞樹の三人展。烏山は、予備校時代の同級である。 http://karasuyamahidetada.web.fc2.com/index.html 烏山の作品は、ミクロとマクロということについて考えさせられる。一見すると非常に細かい作業の積み重ねを規則正しく反復しており、その集積がひとつの壮大な曼荼羅的な世界になってくるのかな、という可能性を感じる。大中小それぞれの大きさの作品があったが、ミクロな集積が観ている身体を曼荼羅的に包み込んでくるという点において、やはり大きな作品が良いように感じられた。こうなると、もっともっと大きな作品が観たくなった。大きければ大きいほど彼の細かさも大きさも感じられそうな気がするからだ。デュビュッフェの「冬の庭」のように巨大なインスタレーション的な空間を創ってほしいと思ったほどだ。
しかしふといちばん大きな作品の、細かい作業自体に焦点をあわせてみると、これもまたひとつひとつ同じようで微妙に違う表情を醸し出している。パッと見ると、神経質なほどシンメトリーでひたすら反復を続けていると思いがちなのだが、ミクロな視点での「ゆらぎ」や「あそび」、「ふるえ」があることに気づく。

ふと、予備校時代一緒に描いていたときの若い烏山を思い出す。長崎から出てきた烏山は、非常に大胆でパワフルなデッサンを描いていた。少々不器用で洗練されていなかったが、非常に味のあるよい絵を描いていた。今から想像もつかないくらいアツい表情の絵であったが、いつから現在のような、徹底的にクールな作品になっていったのだろうか。しかし、ミクロな視点では、相変わらず昔のときの烏山が活きていた。それでいいとおもう。それが、いいとおもった。

また烏山の作品と、諏訪と油井の作品と非常にマッチしていて、よくグループ展にありがちの、散漫で主題がよくわからないあつかましい展示にはなっていず、それぞれが共鳴しあって緊張感あるクールな空間を創っていたのもよかった。

烏山とはグループ展最終日に行ったのでゆっくり話すことが出来なかったが、久しぶりにあえたので嬉しい。発表をしていると、いろいろな人と長いスパンで交流できるきっかけになるのでよい。彼が他のお客さんと話している間、ギャラリーのオーナーのトキさんと話す。




・18日、西荻窪

・19日、専門学校。デッサンの授業で、ヌードを描かせる。




20日、鎌倉絵画教室。終了後、大船観音を拝観する。昭和4年に着工したのだが、戦争色が強まるにつれて工事は中断。中途半端なまま放置されていたのだが、戦後になってまた着工、昭和32年に今の姿に完成したという。今の姿は、山本豊市が設計したという。


駅を観音方面に出ると、目の前にはいきなり川が流れている。橋を渡り信号を越すともうそこは大船観音の入り口である。やたらと駅から近い。これだからいつも電車越しに大船観音の巨大な像が「これみよがし」にみられるわけである。大船観音のあるお寺の門に入った途端、思い切り急な山道が展開される。山をひたすら登っていくと、さらに門が出現し、そこから先は入場料三百円をとられる。観音様を観る拝むだけで三百円かと思うが、折角登ってきたわけだしここで引き返す人もいるまい(まあだからこそ三百円とれる)。さらに急な石の階段を登っている途中、いきなり巨大な大船観音の顔が現れた。階段の遠近感にあまりに不釣合いな巨大さ加減は、なんだか物凄く違和感を感じてしまう。暫く目を見張る。あまりにもキッチュな光景だったので写真に撮りたかったのだが、残念ながらそのときに限って写真を持ってきていないのであった。
しかしいざ階段を登りきって大船観音の胸から上だけの像の全貌を観た時、意外にもけっこう神聖なものがあったのには吃驚した。いつも電車の窓から観るような、山から不自然に突出したシュールな姿や、さっき階段からぬぼっと出現したような、奇怪な姿ではなく、意外にも品がある「まっとうな」彫刻なのである。正面から観る観音の巨大な「胸像」は、さながら隠れキリシタンが持っているマリア観音のような感じもしたし、また、異国情緒あるモダンな色気もあるのであった。けっこう垢抜けているのである。


それにしてもこの大船観音の開眼?までに関わった人々がけっこうなビッグネームが揃っていて興味深い。初期に於いては金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾、浜地天松、花田半助。戦後、再び放置されていた観音を完成させるのに尽力した安藤正純、高階瓏仙、牧野良三、そしてかの五島慶太
そして「画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に、同大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計と指導」(HPより)によって創られたという。
もっと興味深いのは、
「観音像は財団法人「大船観音協会」の名によって運営され、その中心となるのは東京急行電鉄を核とする東急グループ(当時61社)によるものでした。仏具1つを購入するのも東急社員の募金によるものであったといいます。このような関係で、現在も東急グループ各社の発展と安全を祈願するための法要が毎朝行われています。」(HPより) というところ。かの大船観音は、なんと東急グループの「菩提寺」だったんだ!!という驚きである。


やっと長年の謎が解明できた気分だ。あの不自然で極端に巨大で不気味、シュールでおぞましくもあり、キッチュで俗なのにもかかわらず、いや、だからこその、色気やバタ臭さ、品のよさ、神聖さ、あっけらかんさ。この異様なパワースポットは、戦前の筋金入りの体制者たちや初期<右翼>の情念が、そして東急財閥の趣味趣向が、存分に反映されブレンドされ、熟成された結果の代物だったわけである。そしてそれは、東急が出来るときに直接的に参照したといわれる阪急の、もっといえば小林一三、つまりは「宝塚」すら想起させるのであった。
 http://www.oofuna-kannon.jp/01enkaku/index.html