五味良徳、古書中毒、村上綾



・今日も小雨交じりのうすら寒い天候。今年は猛暑が九月中ごろまで続いたので何時までも夏気分が抜けなかったが、気がつくともう十一月にちかいのだ。しかし今年は暑過ぎていつもの年よりもなんだか踏ん張りが利かないことが多くて困る。幸いにも風邪ひとつひくことはなかったのだが。

ベローチェで読書。ささま書店で5冊買ってきた本を読む。昨日ぐっすり寝たせいもあってとてもさくさく読書が進む。私の場合、本を読む速度は睡眠時間によってかなり影響するのである。





・読書をした後、大泉の画廊で開催されている五味良徳展へ行く。幸い雨もやんでいたのですいすい自転車をこいで到着。最終日の閉廊時刻一時間前だったので五味氏が居た。実は五味良徳は十月上旬にも松山広視とギャラリーKにて二人展を開催しており、この人をくったようなふたりの組み合わせは、けっこうツボをついた展示であったと思う。さて今回はどうであろうか。


彼は徹底的に「意味」というものを解体し無化し続ける。彼の描く媒体は全て徹底的に何かの機能を剥奪されて画面上に宙吊りにされる。描き方もまた非常にぬるく、割り切れず、いい加減といえばいい加減だし、徹底的に何かを嘲笑うかのようにほうりだされている。
世の中の「こうしなければならない」というような束縛や暗黙の了解など、そんなものを、逆なでにするような感じもしなくはない。しかし、あくまで「反抗」するわけでもないし、絵自体も突き放している。さりとてクールであるわけでもなく、全てが全て、逆説的にねじくれたあと放置されたところをみせつけられるのである。
・・・実はこんなふうに表現されるような作家さんはぶっちゃけけっこうたくさん居るような気もするのだが、しかし、五味良徳のその解体と無化さかげんは、ほんとうに「そう」なのだ。ここまで「そう」だと、いらついてもむかついてももうどうしようもない。なんだか悪くない意味でなんだけど、気力をすいとられてしまう。(そういう意味では、松山のスタンスと似ている気がする。ああ、もう、これは「仕方がないや」、と思ってしまうほどほんとうに仕方がないしもうどうしようもないとしか云いようがなくなるのである)


しかし今回は結構大きな作品が何点かあり、珍しく下地を厚く塗った上に描いていて、いつもはもっともっと適当なんだけど、今回は、それだけで、何か彼の作品にしては奇妙な説得力が出ていることに気がつく。実は結構なテクニシャンなところも秘めているのである。三年前くらいにフタバ画廊の個展で展示した洋服を描いたシリーズでは、それがけっこう出ていた。それ以降テクニシャン加減は「なり」を潜めていたんだけど、今回はそれが復活していることに気づく。それがいいことなのか悪いことなのか。しかし、それも含めて、彼の作品の全ては、すべて、たぶん、もう、「どうでもいい」。でも、この、どうでもよさが、とっても、()好いのである。それこそが、やっぱり、五味良徳かもしれない。いや、そうでないのかもしれない・・・

http://www.art-nouen.jp/masc/josei/jo15.html
http://www.art-nouen.jp/masc/article/6.html
http://www.tamabi.ac.jp/alt/alumni/2007-6/20070625.html
http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/ask/ASK/hanbai/gomi.htm
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E4%BA%94%E5%91%B3%E8%89%AF%E5%BE%B3
http://geiriki.com/ten/detail.cgi?id=10012091





・五味良徳展をあとにしたあと、例のポラン書房に寄る。ちくま学芸文庫を二冊購入。最近バカみたいに古本を買い捲ってしまっている。やばすぎる。なんだか本を買うたんびにやましい気持ちになるんだけど、その感じと心の中の葛藤が、変なことにさらに購買欲を刺激してしまうのだ。中毒者の典型的な症状だ。歯止めが利かなくなってきている。しかし、不思議なのは、何ヶ月かまえまで同じ古本屋でも、そこまでいろいろめぼしいものを発見できなかったのに、いまは何故か魅力的な本がいっぱい転がっているふうに感じられてしまう。いや、実際いい本がいっぱい見つかる。
たぶん、こういう図式だろう。本をいっぱい買う→やはり買った分だけ少し読書量がふえる→その系統の知識が増えたり共感したりする→すると今まで全然気にしなかったような本やジャンルが突如として魅力的なものと映る→さらにたくさん買う→・・・という悪循環である。





・ポラン書房のあと、遊工房で今日から始まった村上綾の個展 Fragmentary Landscape に行く。村上の展示を観て毎回思うことは、非常に素晴らしいセンスだということである。いい展示なのだ。まず、会場に入ったとたんに、いつもそう感じる。直感的に、非常に快い空気の流れを感じる。なんだかのっけから非常に単純な感想で恐縮なのだが、ほんとうに素敵な展示に出会ったときには案外、「センスがいい」とか「いい」とか「素敵な」などというような凡庸な感想しか出てこないのではないかと思う。けっこう、私は村上綾の世界の、ファンなんだと思う。


部屋の中央には村上の家から持ってきた複数の観葉植物を中心に、様々な小物やがらくたを組み合わせて創った戦艦のようにも飛行機のようにもみえるようなインスタレーションが飾ってある。昔、フタバ画廊での展示の際にもこのインスタレーションと殆どおなじようなものが飾ってあったが、今回は木で作られた飛行機の模型の両翼が、いろいろな小物やがらくたや観葉植物の集合体の中から姿をにょっきり現している。それが恰も密林の中に墜落して朽ち果てていく飛行機の残骸のようにも見え、まるで撃墜された旧日本軍の戦闘機が南の島か何かで自然に還っていくような、ちょっと湿った雰囲気が、フタバの展示のときよりも加わっているのであった。
その感覚は、遊工房のギャラリー空間も影響しているのかもしれない。フタバ画廊は非常に白く、シャープで湿気がすくないようなイメージの空間であったのに対し、遊工房は窓(すりガラス)の面積が大きく、そこから外の植物などが見え隠れしている。それに、展示を観に行った時刻が夜だということも微妙に影響しているようにも思われてくる。


とにもかくにも、フタバ画廊の時にはそのインスタレーションがただただ綺麗で爽やかだったのに対し、少し古びたような、歴史やら年月やらなにか「寂び」のようなものを抱え込んできたのかなあという印象を受けた。そこに、村上綾という作家の思考の深化過程をみてみる。しかしその「寂び」は、あくまでも「もの」と「もの」とが置かれている隙間の絶妙なる通気性のよさによって解されて、空気はいつまでもよどまずに、爽やかで清いままである。


また、周辺に飾ってある「肺」をテーマに変奏を繰り広げていたドローイングや油絵、地図や紙を切り抜いてつくった作品なども、知的に洗練されて、さりげなく秀逸な作品ばかりであった。しかもその「配置」によってそれぞれが響きあい、ひとつの絶妙な空間を作り出すことに成功している。<何故「肺」がイメージテーマなのか?>、<何故空間のど真ん中に植物やら小物やらの集合体があるのか?>、決してひとつの陳腐な答えに集約されないような、かといってわけが判らないといって割り切られないような、絶妙なバランスが展開されているのであった。作品が、そして空間全体が、常に心地よく新鮮な空気を帯びながらも、のびやかで詩的な拡がりを獲得している。


http://www.youkobo.co.jp/exhibition_events/2010/09/post-178.html
http://web.me.com/greekyoghurt/aya_murakami/Home.html
http://web.me.com/greekyoghurt/aya_murakami/News/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/2010/9/21_%E5%80%8B%E5%B1%95_Fragmentary_Landscape%EF%BD%9C2010.10.16%E2%80%9410.29.html