絵を仕上げる。



・やっと今年一枚目の絵が仕上がった。三週間以上かけてじっくりと向き合った絵は、ひとしお感慨深いものがある。目的が明瞭でないとそんなに時間をかけて集中できないだろうから、満足である。こういう仕上がりは、他人がいい絵であるとかだめだとか云うのを気にすることが殆どない。かといって単なる自己満足でもないはず。


・『青空』バタイユ/『巨人出口王仁三郎』出口京太郎/『フラッシュバックス』ティモシー・リアリー自伝/『考える身体』三浦雅士/『フランス幻想民話集』教養文庫/『作曲家の世界』パウルヒンデミット・・・など購入。なんかはっちゃけた本たちだ。いずれも百円とか二百円。


・四月に開催予定の「五人展」の新年会。TC、EY、M、US。鍋を囲む。


・大相撲が終わってしまった。最後まで型をしっくりとすることができずに居た白鵬だが、やはり他の力士とはまだまだ絶対的な差があるので、優勝は当然といえば当然の帰結である。
しかし今場所は両関脇の琴奨菊稀勢の里が二桁を挙げて大関とりの起点とし、大器隠岐の海の開眼、豊ノ島の一勝七敗からの七連勝での執念の勝ち越し、豪栄道豊真将豊響などの有望株がそろって好成績を挙げ、なにかいままでの「日本人力士」の<ふがいなさ>というものが少しずつ払拭されつつある気がする。何か彼らの心の中でふつふつとした熱い蠢きが感じられるようになってきた。これで栃煌山も含めて来場所は彼ら有望力士がそろって上位に進出する。
そして、みてみると野球賭博で休場した力士の結果が総じてすこぶる良い。賭博で休場したために番付を下げていたと云うが、先々場所、先場所とかけて然るべき地位に戻ってきての好成績である。来場所は賭博で休場した時以上の番付で取る力士も出てくる。これでいい成績を挙げられれば、本物だろう。しかしやはり賭博事件がものすごくショック療法になり、怪我の功名というのか、ある目的や使命のようなもの、追い込まれた必死さなどというものが明確になってきているのではないかと思う。それに伴って、賭博に関わらずに番付を下げなかった連中にも好影響を与えたのではないかと思う。
今まで再三再四外国人力士との比較で、たとえば国許の家族の生活を楽にするために来たといったような、明確な「目的」や「使命」のなさが日本人力士の弱さに繋がっているといった指摘があったが、図らずも野球賭博という大相撲存続の危機まで行った大事件により、そのような明確な「自覚」のようなものが夫々に出てきたのだろう。



・実は大相撲や相撲協会が存続の危機に晒されたことは一度や二度ではない。明治初年の文明開化による相撲廃止論から、「高砂(中村楼)事件」「新橋倶楽部事件」「三河島事件」「春秋園事件」敗戦直後の窮乏期、双葉山呉清源の爾光尊事件、出羽海理事長割腹自殺事件、など数多の危機を乗り越えてきた。横綱の不祥事に関しても前田山や双羽黒朝青龍は引退・廃業させられてしまったし、大鵬柏戸北の富士の拳銃不法所持事件というのもあった。また千代の富士は「汚れた国民栄誉賞」などと云われ八百長横綱だとだいぶ板井や週刊誌に叩かれた。八百長といえば、石原慎太郎大鵬柏戸の一戦を八百長だと公言し、物議を醸したのは有名な話だ。その他北の富士や相撲界の実態を赤裸々に告発しようとした高鐵山の不審死、北天佑弟事件なども事件といえば事件かも知れぬ。小錦の「相撲は喧嘩」発言は、今に連なる「外人」問題の、象徴的な発言かもしれぬ。
然しそういった事件にも拘らず、大相撲はその度に逆境を乗り越えて、存続の危機から隆盛期を創り出すのだ。実は、大相撲は明治の初年からすでに「封建的」で「過去の遺物」、「時代に合わない」といわれ続けてきており、八百長暴力団の繋がりなどということで問題になったことなど、今に始まったことではなく、十年、二十年単位でそのような問題はいつも活火山のようにマグマが噴出する。でも、それが、大相撲である。それも、大相撲のダイナミックなうねりなのである。
しかしだからといって、やっぱり、八百長とか賭博とか暴力団とかは表に出してはいけないものではある。けれども、時代のうねりの中でどうしても、出てきてしまう。でも、それは、完全になくすと、その本質を失ってしまうという、矛盾。それが大相撲の究極の捩れたエロティシズムにも関わっているだろう。
大相撲は清濁併せ呑み、不合理や不条理なものが完全に無くなることはないといってよい。むしろ、それの根が本当に断ち切れてしまったときにこそ、大相撲は終焉するであろう。


「白河の 清き流れに 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」