今季初授業、そしてつらつら最近思うこと




・大学の今季初授業。その前にTHと藍屋でお茶。疲れた!!






・美術の講師をしていると、自分の好き嫌いや、自分の感性の尺度だけで直ぐに人を判断しない癖がつく。その前の職業である画廊業でも或る程度同じような癖がついた。


作家の作品に就いて、ぱっと直観的に否定的に思ったとしても、はじめから駄目だ駄目だと、ただ論ったって、反発を喰らうばかりで、勿論何も得るものがない。
まずは、その作品がうまくいってようがそうであるまいが、作家が何をやりたかったのかを理解し、出来うる限り共感するところから始まる。そうすると、大抵はその人の拘りがみえてくる。誰だって、作品を態々創るからには、なにかしらの拘りがあるはずであり、それが全くない作品なんて云うのは、めったにお目にかからない。そう云うスタンスで作品や展示をみていると、よっぽどのことではない限り、「全く駄目だ」なんていう作品や作家には、お目にかからない。まずは、その人のやりたいこと、やりたかったことを、把握して共感することが大切だ。
そうした時にはじめて、その拘りがどうしてうまく見せられていないのかも判ってくる。そのときに初めて、作家さんに、「もしかしたらこういう風にしてみたらもっと見栄えがよくなるのではないかと思ったのですが、いかがでしょう」くらいのことが云えるのである。


教師でも同じだ。
最初から否定的なところを論っても、ただ萎縮して自信をなくさせてしまうだけである。それよりはまず、その人の実感がこもって作業して出来ているところをみつける。そして、それをどのようによく見せていくかということを第一に考えて、その方法を伝える。誰でも自分が一番拘って居るものが少しでも表現出来れば、嬉しいものだ。自然にみんなやる気が出てくるのである。
そのようにして軌道にのってきたら、漸く一般的かつ客観的に、足りない部分を指摘する。その頃にはもう自分を失わずに描けているので、そのような指摘をしても、苦になることなく、それについて冷静に思考錯誤できるようになる。
そうすると、それぞれの味が失われないずにひとりひとり上達していくので、教室全体の絵が、バラエティーに富んだ面白いものになる。




・よりよいものを創っていこう、という信念は大切だ。そして、自分があるものに非常に熱心であるからには、何かを評するにしても、「勿論目利きでないといけない」と云う拘りも、或る意味で必要だろう。自分の善悪や嗜好の基準を明確に提示するといったやり方は、よっぽど自分に自信がないとできないことであろう。併し、余りにそういうものを持ちすぎたばかりに、自分とは異なる感性や基準と云うのを切り捨てすぎて、知らぬ間に他人を傷つけてしまう、と云うことは往々にして在りがちであると思う。


実力社会で勝ち残っていくとか、プロフェッショナルとして活躍したいとか、自分は誰よりも優れているとか、憧れに少しでも近づきたいとか、そう云う野望とか矜持とかも、全く必要ないとは云わないが、それにかまけすぎていると、ささやかでフラジャイルな感性がまったく見えてこなくなってしまうこともあるのではないかと思う。自分の物差しでしか判断せず、自分とは異なる感性に余りにも屈託なくデリカシーない冷淡な態度をとるやつにこそ、がつんと否定的な言辞を贈りたいと日々思うのである。




・僕は教師をやっているからには、地中に埋まっているダイヤモンドの原石の如く、一見不器用でささやかで目立たず、フラジャイルで、洗練されていないような、そう云うものをなるべく見つけて、引き出したいと思ってやっている。マッチョなひとなんか、やるなっていっても、やるんだから。