友人の個展



・トキ・アートスペ―スにて烏山秀直 http://karasuyamahidetada.blogspot.com/ の個展を観る。そのあと烏山氏と友人のM、Y両氏と外苑前と表参道の間くらいに在る焼酎系の居酒屋へ行く。かなり贅沢に呑む。烏山氏の個展で、彼の大学や地元などのコミュニティの結束の固さと云うのに、いつもながら感嘆しながら呑む。烏山氏とはもう十三年の仲で、勿論隔たりなく話すのだが、彼の周囲の人たちと呑むと、毎回非常にアウウェイな感じを覚える。その徹底的にアウウェイな感じがかえって愉しくて、烏山氏に誘われるままに彼のコミュニティの呑みにいつも行く。今日もそんな感じを起こさせるような人が居て、多少そのような雰囲気になったので、それはそれで非常に愉しく呑めた。聞き役に徹するけれども、それがいつもの自分ではなくて、面白い。また、自分に対する評価のされ方も、僕のいつも居るようなコミュニティとはだいぶ違う評価のされ方で、それも興味深い。


・ふと、昔、非常に苦手だった自分の母校の同僚との会話や関係などを憶いだす。彼らは余りにも自分のイメージをはっきりもっているのだ。それはひとつひとつの言語にも当て嵌まる。例えば同じ単語を発したときに、少しずつ「ずれ」のようなものがあって、それを思考錯誤しながらすり合わせていくときに初めて「共感」や「理解」のようなものが生まれると思うのだが、彼らはそれについてはいちいち詮索せずに、一足飛びに自分の好みか、そうでないか、と云う所に飛躍して、閉ざしてしまう感じがある。
そうすると、元も子もないのだが、私としてはその元も子もないところから、「敢えて」そこらへんに居続けて、色々こちらが理解し続けるふうにすると云うような感じにするのが、最近は面白い。(昔は全然できなかったけれども、最近、そう云うことが、出来るようになった。それも、嬉しい)



・要するに、「文学」の資質の問題であろう。結局言語は、両義的、多義的な、曖昧なものであり、その、個人個人の差異を愉しむと云うのが僕のいつものスタイルなのだが、それが殆ど通じない世界と云うのにたまに投げ込まれると云うのも良い体験だと思う。
こう云うことをつらつらと考えていくと、つくづくと、随分自分は心地よい方向に自分をもっていけているのだなあ、と思う。




・烏山の作品は、今までの四角四面な感じが、少し円やかになり、ゆらぎや遊びが画面の中に入ってきて、無理なく観られるようになった。今までは「烏山秀直の世界」と云う感じであったけれども、今回出ていた作品には、それそのもので、そのまま愉しめるようなものが増えていて、それがとても嬉しかった。烏山自身、自分の感性や、質や、癖に、無理しなくなってきたのかもしれない。