繋がりと柵と深みと継続、そして馴染むまで。




・繋がりを持とうとか、深い関係や友情とか愛情を持とうとかすると、必ずどこかでその関係性に、自分の自由と云う奴が制約されうることになる。幾ら相性が良い人でもやはり他人は他人であり、勿論全て納得する行動をとってくれるわけではないし、深く知れば知るほど、何か嫌な部分や欠点も見えて来るだろう。そして、そう云うものほど、ちょっとやそっとではなおらないものである。一番の欠点等は本人にとって一番直しにくいから欠点なのであるからして、そうそうなおるものではない。そもそも教師にしたって、親友や恋人にしたって、人のことなんてそうそう啓発や矯正なんて出来ないものだ。まあそういう時は、その欠点を含めて、その人自身を認めるしかないのである。でない限り、深く付き合えば付き合うほど、嫌なところが見えてきたりして、それを認めなければ、結局傷つけあいにしかならなくなってしまう。従って、それを認めながら、然も深く付き合うと云うことは、それなりに自分の自由(エゴ)に制約をかけ、嫌なところも含めて相手の論理に或る程度合わせることも、どうしたって必要になってきてしまう。それは柵と云う風にも云えると思うけれど、その制約と云うものが苦痛にならないで、寧ろその制約が自分にとって動きやすいものになることが一番いいかたちであるのだろうけれど、なかなかそうなるのは至難の業である。併しその至難の業であると云うことも含めて、肯定的に捉えていく、それをやっていくこと、そう云うものを志向し続ける。そうやって、少しずつ関係性は、気がつけば深くなっていっているのではないかと思う。併し、どうしてもエゴにならねばいけないときもあったりもする、そう云う時には、相手はなるべくすばやく察して、深追いしないで距離をおくことであろう。大まかな信頼関係があれば、余裕ができれば、何れは戻ってくるだろう。下手に深追いし過ぎたりなんかすると、大まかな信頼関係自体にも罅が入ってしまってなかなか面倒くさくなってしまうこともある。そう云う時は、執着しないことだろう。



・働けと云われて働いたり、働かねばならないと消極的な理屈でしか働かなかったりすれば、どうしてもその制約が柵にしか感じられなかったりするけれども、それが柵に感じられずに「じぶん」が「しごと」に馴染んでいけることが肯定的になることができるのが一番いい。馴染むと云うのはじぶんを感覚的に相手の論理に委ねる事が出来て、そして、また、自分自身でそれを消化も出来るようになったということだから。対して、それが何時までたっても柵としか感じられないようであれば、それは自分が相手=仕事に或る意味同化することが耐えられない、と云う自己防衛が何時までも働いていることに他ならない。同化したり委ねたりすることが嫌だから自分が他の論理に囲まれていて、息が吸えないようになっているように感じているのである。激しくアレルギーが出ているのだ。働けば働くほどそう云うようにしかなっていけないのであれば、やはり、すぱっと辞めた方がいいだろう。たとえそれが、生活の為だろうとなんだろうと、それはあまり無理しない方が良いような気がする。そのほうが最終的に自分のために成るだろうと思う。併し先ずは、仕事を探すときに、そのようになってしまうような仕事や職場を、避けるような嗅覚を身につけることと、相手に択ばれるだけでなく、或る意味こちらも相手を択ぶようなくらいな気概程度は持つべきだろう。
たとえばお金が足りないからとか、結婚したいからとか寂しいからとか、そう云うような理由で自分を無くしてまで職業や相手を手に入れても、それはかえって最終的には自分への柵を作るだけのことになってしまう。だから、あくまで自分を失わずに、必要以上に媚びることなく、併し相手の論理に共感できるような「ところ」をみつけるまで、焦ることはないのだ。