名月、墓参り、鬼怒川、批判論





・仲秋の名月。天高く冴えわたる。併し乱視が入っているので、輪郭がぼやける。名月を観るためだけに、眼鏡がほしい。



・今日は何かと忙しく、午後、専門学校の用事を済ませた後、南行徳にて塾講師。久しぶりの専門学校は、学生が揃いに揃って、物凄くさわやかな、明るい顔をしていた。前期、大変だったんだなあと思う。よく頑張って居たんだなあと思う。後期は、もう少しマイペースが出て来るだろう。


アラザル安東三に子供が生まれた。非常に名文である。祝福。 http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110911






・8日、9日の墓参り&旅行のメモ。




8日朝八時半に両親が車で荻窪の僕の家まで迎えに来てくれる。そのまま車に乗り込み、一路高速道路へ。高速道路には、谷原の交差点の先のところから東京外環自動車道に入る。そこから東北道に入り、郡山まで。
途中佐野SAにて昼食。佐野ラーメンを食す。しょうゆラーメンと云っても、塩味に近いさっぱりした味と、保水力のあるちぢれ麺。


郡山に一番近い須賀川で高速から降りる。降りたら其処は福島県である。矢張り未だに屋根瓦が落ちたままになっていたり、壊れて取り敢えずビニールシートをかぶせているだけだったりしている家が少なくない。震災の現実をみる。内陸の郡山には津波は来なかったけれど、矢張りまだ、目に見えているなまなましい、直接的な震災が存在し続けている。家の墓も、地震によって動いていたし、塀も少し曲がってしまっていたけれども、何とかぎりぎり大丈夫な範囲であった。霊園の事務所のような役割をしている石材店に行くと、いつも通りのおじいさんとおばあさんがいて、同じような石材店の建物があって、安心した。ここはいつ来ても、昨日来たような感じがする不思議なところだ(ちなみに本郷の喜福寺に墓参りに行くときも同じような感じがする)。ただ、よくみると、いつもよりもまして石材が多かったり、墓参りのための柄杓と水を入れる桶が多かったりしている。震災で需要が増えたのかもしれない。


石材店の中央にはテレビが陣取っていて、いつも点けっぱなしになっている。そして(大体夏に行くので)いつも甲子園がやっている。それも毎年のことだったのだけれど、今回テレビで流れて居たのは、震災のテロップが常に流れている、テレビ福島であった。今日の放射能の濃度、と云うのが、市町村毎に詳しく流れている。幸い石材店の周りは低いらしいのだけれど、ちょっと行くと、ホットスポットもあるらしい。
ちなみにどうして墓が郡山に在るかと云うと、祖父が二次大戦で疎開した矢先が福島だったということだ。神楽坂あたりにあった住居が焼かれてしまい、結局それから祖父は東京に戻ってくることなく、喜多方や郡山で過ごした。そんなこんなで郡山に墓があるのである。ちなみに父は、五歳くらいからずっと福島で育ったので、故郷は福島だと思っている。



夕方、再び須賀川から東北自動車道に乗り、鬼怒川まで。くねくねした複雑な山道を、七十二歳の父は、いやに上手に運転する。父は、べらぼうに運動神経がいいのだ。六時過ぎくらいに鬼怒川温泉ホテルに到着。
http://www.kinugawaonsenhotel.com/
六時半から食事。バイキング形式である。バイキングには、いやに豪華なものも点在しており、抜け目なく高価なものをいくらだけ食べられるかと云う根性で、とりかかる。
タラバガニ約一匹分、鮎塩焼き二匹、ガーリックステーキ二人分、野菜、宇都宮餃子四個、寿司鮪四貫、寿司穴子四貫、生湯葉、羹の湯葉とオクラ、ピザ一切れ、ハンバーグ一個、メロン二切れ、ライチ五個、野菜(スプラウト・水菜)、味噌汁、デザートの小さなケーキ四個、桃のアイスと柚子のアイス、メロンソーダ、珈琲三杯。流石に食べ過ぎたと思う。併し、タラバガニとガーリックステーキは特に美味しく、値段にしてはとてもお得感あり。
客層は、女子会あり、カップルあり、老夫婦もあり、と結構幅広い。こういうところのカップルは観ていて楽しい。結構喧嘩して居たりするのもあれば、黙々と向かい合って食べていたりするカップルも居る。意外と、こういう初旅行みたいので別れてしまうのも多いのではないだろうかと思う。女子のゆかたが可愛くて良い。
暫く部屋で休んだ後、父と浴場に行く。結構混んでいた。男でも体型と云うのは、千差万別である。いろんな体型があるのだなあと思う。浴場は広かったが、露天風呂が余り露天風呂ではなく(殆ど室内で)、がっかりする。「馬油」と云うトリートメントがとても良い感じ。風呂上がりに計量すると、約三キロ太っている。
両親は十時前には床に入り、直ぐに寝てしまう。僕はそんな直ぐには眠れないので、廊下に在る椅子に座りながら読書。引き続き針生一郎の『戦後美術盛衰史』を読む。十二時過ぎに僕も寝る。




9日朝、五時半に起き、父と浴場に行く。昨日と女湯と男湯が入れ替わって居り、こちらのほうが数倍豪奢。この浴場であれば大満足。ゲルマニウム風呂がほんとうに気持ちよいし、露天風呂もちゃんとした露天風呂だし、風が心地よいし、昨日の浴場よりもさらに広い。満足する。湯から上がった後、計量。一キロ以上痩せる。
朝食も、バイキング。しゃけ一切れ、茄子とチーズの料理、小さなパン二つ、クロワッサンひとつ、蕎麦、牛乳、シャーベット、珈琲。
連続テレビ小説を観て、其のあとに高良健吾がゲストに呼ばれていた番組を観る。九時過ぎチェックアウトし、旅館の人に記念撮影してもらって送ってもらい、ぼちぼち出発。先ずは近くに在る大吊橋に行く。鬼怒楯岩大吊橋。
http://www.kinugawa-kawaji.com/play_buy/2010/0409.html
僕は高所恐怖症なので吊り橋は大の苦手だ。何で苦手かと云うと、吸い込まれるような、引き込まれるような感じがするからだ。電車のホームでもたまに感じるあの吸引力は非常にきらいである。感覚的にはそれと一緒である。死と隣り合わせと云うのは、なんと怖いことだろうか。
何とか大吊橋を渡って、その先に在る滝と池を観て、もう一度大吊橋を渡って、車の方まで戻ってくる。戻ってくる時には、多少馴れて、吊橋からの景色をちょっとだけ愉しむことができた。


その後、日光今市道路?経由東北道で、一路佐野市へ。せっかく東北の方まで来たのでどこか観光しようということで、先ずは佐野厄除け大師へ。佐野ICから降りて佐野市に入ると、なんだか景色は荒涼としていて、砂埃が舞いそうなくらいの処で、ちょっと気が滅入る。何となく家族全体で不機嫌になりかけたが、なんとか佐野厄除け大師まで辿りつく。其処で、父と僕が大吉を引く。母はもう三連続大吉が当たったから引かないと云って引かなかったけれど、なんだかそれだけで家族全体がぱっと明るくなる。近くの観光案内所に入って、案内をみると、何と佐野市と云うのはほんとうにラーメンのメッカなのだということがよくわかる。なんでも厄除け大師の周囲に七十件も八十件も、「佐野ラーメン」の店があるというではないか!佐野ラーメン佐野ラーメンと云うけれども、こんなに本気でラーメン一色だとは思わなかった。
あれこれ訊き出して、人気店をいくつか紹介してもらった中での、「ラーメン大金」に行ってみる。昨日入った佐野SAの佐野ラーメンとどういう風に違うのかと思って入るが、やっぱり全然違った。まず汁が黄金色に輝く透明な感じで、そして啜ると、ふわーっと爽やか。どんどん続けて啜ってしまう。さて、麺。これも別格。保水率が高いちぢれ麺なのはみんな佐野ラーメンの特質かもしれないけれど、やはりなんだろう。違うのだ。何かが。上品と云うか、ちょっとしたコシがきいていて、そのバランスが絶妙なのだ。佐野SAで食べたラーメンも悪くはなかったし、見た目はそんなに変わらないし、同じような汁で同じような麺なのだけれど、同じようで全く同じではない。このミニマルなのにマクロな違いには驚く。チャーシューも絶品だったし、餃子はここの特製で、刻みニンニクが容赦なくたっぷり入って居て、非常に食べ応えのあるもので、皮がパリッとしている加減もにくい。あっさり系のラーメンにこの餃子の組み合わせは最強である。
http://r.tabelog.com/tochigi/A0902/A090202/9006290/
http://www.geocities.jp/mensplaza21/jjsano018ogane.htm



佐野ラーメンを満喫した後、足利フラワーパークに行く。ほんとうは足利学校に行く予定だったのだが、その前にちょっと寄ってみようかと云うかたちで、足利フラワーパークに寄った。併し、ここの気合いの入りようはすごくて、結構な時間を其処で費やしてしまった。何せあんなに藤棚と云うものが充実している庭園など、観たこともなかった。このでかさは常軌を逸して居る。 http://www.ashikaga.co.jp/index2.html
http://www.ashikaga.co.jp/park/index.html
そして隈なく整備され、繊細に植えられている草木花々はたいへん素敵であった。大体こういう地方のフラワーパークなどは期待ほどでもなく、センスもがっかりするほどよくないものだが、ここのフラワーパークはかなり頑張って造園して居る。どれだけ金をかけているのだってくらいしっかり作って居るのにはびっくりした。思いのほか満喫して、出たときにはもう四時前になってしまっていた。
そとに出て何気なく景色をみていると、山の方に美術館があった。栗田美術館と云う。ちいさな美術館なのかなと思って、直ぐだからといって、歩いて行ってみる。フラワーパークから五分ほどで到着したのだが、これまた圧倒的な大きさの美術館であることが判明した。世界屈指の陶磁美術館と云ううたい文句なのだが、それに見劣りしないほどの規模で、どでかい大名屋敷がそのままそっくり美術館になったような態なのだ。あまりに凄すぎたので、四時に来るところではない、またしっかり来ようと云う風になって、結局中には入らずに、そとで写真だけ撮って、やっと本来の目的であった、足利学校に向かうのであった。
http://www.kurita.or.jp/



足利学校に到着したのはもう四時半前で、ここも、もう閉まっていて、中にはいることは出来なかったけれども、これも非常なる偉容を示していた。
http://www.ashikagagakko.jp/
足利市全体でしっかりとこの一帯を大事にしているということがよくわかる。帰ってきて調べてみたら、足利邸跡は、百名城のひとつに数えられているらしい。宛ら小鎌倉と云う趣の足利学校周辺。こんなに素敵な街並みであるとは思わなかった。母親は、この周辺の織物屋さんでテーブルクロスを買ったり、アジアン雑貨屋さんで、夏物を安く買い込んだりして買い物を愉しんでいた。


暫く周辺を散策して疲れたので、近くのパン屋さんのようなところで軽くかき氷を食べた後(父はいちご、母はメロン、僕はブルーハワイ)、どうせなら夕食も足利で食べていこうということになって、近くの案内所のようなところで訊いた、釜めし屋さんに行くことにした。そこで辿りついたのが、銀釜。
http://r.tabelog.com/tochigi/A0902/A090202/9002173/
僕は其処で鰻釜めしを頼む。文字通り釜の中の飯の上に、鰻が載って居る。釜の保温状態と蒸され加減、釜との接触面についた焦げ目と、鰻のコシ具合。全てが釜の中で融和し一体化しており、これは絶品であった。ちょっと前に伊豆榮梅川亭にてうな重を食したけれども、もしかしたらそれをも上回る美味しさに感じられた。一日の締めにこのような絶品を食べられたのは究極の幸せ。最高の旅の終わり方。




一路東京へ。九時ごろ荻窪へ到着、両親は十時ころ八王子みなみ野へ着く。高速道路を使ったのだという。

















・なにかを批判したりすると云うことは、肯定的にも否定的にも、非常に責任あることであり、或る意味の責任を積極的に担うと云う事であると思う。態々積極的に批判を繰り広げ、波紋をよんだり反感を買ったりするのは、当然それだけのリスクを伴う。というか、殆ど短期的には、リスクしかないと云ってよい。批判には非常なる精神力と体力を使うと思っている。めんどくさかったり、批判するにも足らないと云って、黙殺することだってできるのだ。その方が簡単なのだ。併し、そのリスクをも凌駕し、敢えて批判と云うものはされるのである。だから批判と云うものは肯定的にも否定的にでも、僕自身はしてもらったほうがいいと思っているし、批判されるのはありがたいと思う。それに、僕も出来うる限り、積極的に批判と云うものを捉えて実行したいと思っているスタンスである。
ただ感情論で、自分の要求どおりにならないものを口汚く罵倒するのは、それは批判でも何でもない。批判を、そう云うものに堕してはならない。併し人間と云うのは、なかなかそのバランスを保つのが難しいもので、時としてやはりそう云うものに堕してしまうこともあるかもしれない。僕自身はと云えば、残念ながら、そういうことは、あると認めざるを得ない。また、戒めても戒めても、どこかでうまくいかなかったりすると、そう云う風に罵倒するつもりでなくても、そう云うように捉えられてしまったりもする。


人間は思っている以上に理解されていないし、思っている以上に理解されても居る。この矛盾の、やじろべえのバランスの裡にあるのだろう。そのバランスを保ち、どっちかに傾いて、バランスが破壊されないようにするのが非常なる精神力を伴うものなのだと思う。
併し、人生はやはり静止したままでは何もならないし、静止したままでは生きていけない。どうしてもやじろべえは風にも吹かれてしまう。その風を逃れようとばかりしていては、やはり後ろ向きになってしまい、人生つまらない。積極的に波乗りをする面もないとやっていけないだろう。
人間関係をそつなく、表面的なつきあいだけですまそうと思えば出来なくはないかもしれないが、やはり、リスクを多少ともなって居ても、積極的に波乗りをしていくことこそ人生の旨味があるのではないかと思う。


・だからこそ、批判の流儀に、神経を遣わなければいけないのだ。
・批評と云うことばにあえてしない、「批判」と云う言葉。