外向的→内向的/デュシャン





・朝九時半に目覚ましをセットするのだが、辛くて十一時まで布団にくるまりからまりしながらまどろむ。余りよい考えが浮かんでこず、比較的ネガティブなどろどろした記憶の連なりが頭の節々に巣食って居る感じなのがあまり気分良くない。だから、尚更起きたくなくなるのだ。とはいえ、やはり焦りのようなものがあるのは当然で、早く起きなければと云う使命みたいなものはずっとある。それで、それと「起きたくない」の折り合いがやっとついて、身体が少しずつ起きてもいいようなものを感じて来ると、あるときがばっと起きる。その時が今日は十一時だった。


・朝御飯も作ることができず、12時ころに太陽のトマト麺を食べに行く。食後にベローチェで珈琲。少し落ち着いて、図書館に本を返却しにいく。其の後買い物に吉祥寺。手帳を買う。2011年はいいのが売って居たのだが、2012年はそのお気に入りのスタイルのが販売中止になってしまったそうだ。2011年のお気に入りのやつは、2012年の1月まで入って居たのに、2012年バージョンは、2012年12月できっちりと終わりやがる。とはいえそれしかないので、それを買う。
その後よみた屋に行って、時間を潰す。ささま書店は妙な色気があって、幾らお金があっても何かしらで落としたくなってしまうのだが、ここのよみた屋は、とても通でよい品揃えなのにあまりかいたくならない。何故だろうと思う。たぶんささまは隙の作り方が絶妙なのだろう。よみた屋は、値段に抜け目がないのだが、ささまは程良い感じで抜けを作って来るからいやらしいのだ。(といいつつも、大体は適正価格で、ほんとうに良い本はやっぱり高いのだが。)
とにもかくにも、ちょっとした違いがけっこう大きな違いになっている気がする。でも、よみた屋も好きだなあ。


・副職をしながら関西土曜ほっとタイム「ぼやき川柳アワー」と、大相撲をラジオで聴く。映像がなくても、きょうは何となくこの力士は勝ちそうだなとか、おや、何となく負けそうだぞと云うのが伝わってくる。お客さんのざわつきとか、ちょっとした「なにか」がそう云うようなものを伝えて来るのだ。もちろん解説者とかアナウンサーとかの語り口でそれを感じ取ることもあるけれども。
稀勢の里はきょうも負けそうもない気が伝わってきた。やっぱり危なげなく勝ったようだ。大関になってほんとうに稀勢はなにか格がひとまわりもふたまわりも大きくなったようだ。やはり北の湖のようなふてぶてしさと威厳が備わってきたのではないかと思う。北の湖のように、憎たらしい程強くなって、白鵬と張り合ってほしい。稽古も良いが、科学的な研究も怠らない白鵬に、身体だけではなくどこまで「頭」でも負けないようになるかが課題ではないかと思う。


・夜、南荻窪図書館に行って目当ての本を借りて、OKへ鍋の具材を購入。帰宅後ちゃんこ鍋を作る。


・ちゃんこ鍋を作って居ると精神的にもだいぶ安定してきて、夜は完全に孤独の愉しさみたいなのが出て来る。講習が終わってこの何日か、外向的に張り詰めて居た神経が内向的なものにシフトする過程で、とても精神が不安定だったが、漸く少し内向的なじぶんになじんできたのかもしれない。
決まって朝は鬱的で夜になるとやたらに気分が良くなるのはあまりいいことではないのだが、今日の夜のしっくり加減は、今までのとは違って少し地に足のついたものになっている気がする。


・結局、人にやたら会いたくなったり、人のことを考えて気になってしまってネガティブになってしまったり、そう云うのがこの時期一番つらい。一旦独りに馴染んでしまえば、今までのこの辛さって何だったのかと思うほど苦しくなくなるし、達観できるのだけれど。
外向的なじぶんと内向的なじぶんに上手く折り合いをつけながら生きていかねばならないのはしんどい。こんな状態にならないいちばんのことは、おちついた余裕がある伴侶ができることなのだと思う。




・KNと肉会の時にちらと話題に出た洲之内徹がなんだか気になって、本棚からひっぱりだそうと思う。
・しかし、やっぱりつまるところデュシャンだ。デュシャンだったのだ。デュシャンは僕の核なのかもしれない。デュシャンが僕にとっての核なのだ。最近はっきりと自覚した。デュシャンを何年もかけてやろう。