相撲についてのノート



・今日は千秋楽。白鵬朝青龍。前日朝青龍の25回めの優勝が決まっている。朝青龍は最後の仕切りのときに何故かいつも行っている腹を思い切りたたく気合の儀式を行わず、舞の海曰く「冷静」なまま立った。この両者の対戦には珍しく一回でたつことができず、仕切りなおし。朝青龍、立ちあいはまずまずの踏み込みで上手がかかりかけたが、すぐに白鵬に切られる。そのまま圧倒的に不利な体勢になり、寄られ、なんとか粘るが、白鵬相手にあそこまでの体になってしまえばもう何もすることは出来ない。そのまま寄り倒される。白鵬は最初から目や身体全体に気がこもっており、前日まではどことなく小さくみえた身体が今日は大きく美しく見えた。白鵬、12勝3敗、朝青龍、13勝2敗。把瑠都12勝、豊響12勝。

白鵬は8日目に把瑠都に敗北、30連勝で止められる。以後、日馬富士そして魁皇に連敗するなど、昨年年間86勝4敗だったにもかかわらず、一場所で3敗を喫する。明らかに魁皇戦では立合いに精気が見られず。あっさり極められ、送り出される。対する朝青龍は無理をしない慎重な取り口と「機を見るに(非常に)敏」という言葉が相応しいような切れ味異常なほど鋭い大技が、面白いほど、ここぞと云う時に決まった。両横綱以外で出色なのは魁皇。星は9勝6敗であり、数字的にはもちろん大関としては物足りない数字ではあるが、必死で相撲を取り、最後まで諦めない執念が随所に見られた。この何年かこの関取に見られないものが今場所は見えた。年齢や身体・ケガの状態からしても非常に今場所は頑張った。幕内勝ち星史上一位の通算808勝、そして来場所は幕内通算百場所目を達成する。
千代大海はついに引退す。約一年前に国技館で稽古総見を見たが、明らかに他の関取衆より身体のハリとツヤが落ちており、大関でありながらも独りだけ幕下の力士が場違いな中に居るような様だった。それはもう哀愁なんてものを通り越しており、誰の眼にもそれは明らかだった。今場所まで続けたのはどういう理由があったのかは判らないが、本人にもそういうのは厭というほど判っていたはずである。早速解説に呼ばれたが、引退したばかりの力士とは思えないほど小さく、ずっと前から親方だったような顔をしていて、むしろそれが非常にいきいきとして自然な表情をしていた。彼は一年前くらいから、もう現役の力士でありながら、そうではなかったのである。



・相撲は基本裸だから、嫌でもじぶんが全部でちゃう。「人間」をさらけださざるを得ない。朝青龍の強みは、それを過剰なまでにさらけだすことが出来るからだと思う。白鵬だって、全然違って冷静だけれど、やっぱりものすごくさらけ出しているのが一目で判る。強くなれば強くなるほど、色んな感情や感覚を受け入れて全方位に感じとって、それに対して正面から戦えているし、それを存分に出せている気がする。横綱はその振り切れ具合が、やっぱり大関以下の人とは全然違う。横綱、それも大横綱になればなるほど、そういうのがある。千代の富士貴乃花もそうだった。時に人間離れしているようにみえるかもしれないけれども、それは、あまりに「人間」である故だからだ。あまりに色んな方向に、いろんな次元で、単調にならずにさらけ出せているからだ。

今日は白鵬が仕切りから再び美しく見えたし、朝青龍は普通のひとだった。心のちょっとした動きとかバランスとか、言葉にならない微妙なところを心技体全部で表現する。取り組み、勝負自体も面白いけれど、「仕切り」の面白さってちょっと他のスポーツとかでは見られない独特なプロセスとしての魅力を体現しているよね。このプロセスにリアリティというか実感が伴ってきているかそうでないかがすごく露骨に見えてくるし、それが結果にものすごく繋がっているのが判るし納得できる。相撲が単なるスポーツではない魅力を醸し出しているのは、「競技」というよりも人間と人間のドラマが前面に出て、それがびしびしとあけっぴろげに伝わってくるからではないだろうか。北の富士さんの言うように、今場所はいい相撲が多かった。なんか相撲界自体の流れが変わってきたのかな?あとは貴乃花騒動の行き先が楽しみであるね。


・廻しについて考えてみる。廻しを着ける事で陰部弱点を隠すしたり保護するだけではなく、それ以上の役割がある。腹に巻くと気が引き締まる、気が、腹や腰という人間の一番根本的な部分に集中する作用を齎す。何かそれをつけることで、力士、チカラビトになるのだ。廻しを与えないこと。それは自分の大切な気を渡さない、ということにも繋がる。そして廻しをとった瞬間、相手の気合を物理的にも精神的にも奪い取ることができるのだ。