新国立美術館/陰影礼讃



・教えに行っている専門学校の先生方やOBが出している新制作展に行く。新国立美術館。そのあとに「陰影礼讃」展を観る。http://www.nact.jp/exhibition_special/2010/shadows/index.html なかなか面白い試みであると云えるだろう。ラトゥールがなく、安井曽太郎がたくさんあったのは意外だが、国立美術館所蔵からと云うのであれば、なんだか納得がいってしまう。安井曽太郎の油絵は、ナンセンスとビビッドの境目をまたいでいたりいなかったりして、観ればみるほど危なっかしい作家だ。その際どいところがたまらなくマニアックで魅力的である。多分にマチスなんかの影響を受けているであろうけれども、そのウエットでナンセンス極まりない「アジア」的野暮ったさとこれでもかと云うほどあっけらかんとした露悪さは、はっきり云って気持ち悪いし、これみよがしなほどの下手糞な絵が何でここにあるんだとついつい怒ってしまいたくなるのだが、やはりその強烈なイメージは、どんなにかしこまっている作品よりもこころに焼きついてしまうのであった。実際は構成など非常によく考えられていて、少しなれてくると絶対に下手糞な絵ではないと判るのだが、それでも、「あえて」下手糞だと切り捨てたくなるような感情にどうしても襲われてしまう。そこがマチスのような静謐で完璧なほどの調和が取れた色彩対比と調和空間から、少しの躊躇もなく溢れ飛び出してしまっている安井のコワさでありオソロシサなのである。
そして、未だに油絵科の予備校生の模範になっているアカデミックの権化と云うべき木炭ヌードデッサンを観てしまうと、ああやっぱり安井は超確信犯なんだなと改めて思う。


岸田劉生の絵も何点かあって、やはり彼の絵もじゅうぶんに気持ち悪さはあるのだけれど、やはりこの気持ち悪さはまだ「範囲内」の気持ち悪さである。彼の絵は湿ったエロティシズムが感じられて、やはり底には淫靡な快楽や心地よさが潜んでいるのだけれど、安井の絵には、そういうような隠されたものがまったくといって排除されており、あくまであけすけに、露悪的に迫ってくる。


デュシャンの展示や高松次郎の「影」の作品の照明の落とし方もなかなか思い切ったことをやっていて好感が持てた(高松の作品は、もしかしたら高松の具体的な指示があるのか?)。写真を中心にちょっとマニアックな抽象に近い「割り切れない」作品が散見されたのも嬉しい。写真では篠山紀信の思い切った構図と逆光で女体を写した作品が印象深かった。一枚だけだったけれど、白黒だったけれど、ちゃんとキシンはキシンなんである。
現代作品では、もはやお決まりのメンツになってきつつある辰野登恵子、丸山直文、小林孝亘杉本博司宮本隆司などであって、彼らは当然実力者であるがゆえ失敗はなくそれなりのいい展示にはなっているのだけれども、もう少し思い切った人選や展示方法が必要なのではないかと思う。「影」をテーマにもっとぶっちぎれた人を配置してほしかった。そこは学芸員の腕の見せ所なんじゃないのか。中途半端に国立美術館のソツのなさが出てしまっていたのが残念と云えば残念かもしれない。国立美術館は、大手画廊にそんなに気を遣わなくてよいのである。もっともっと思い切った作品を仕入れてください。




・芸術関連でもうひとつ。http://setouchi-artfest.jp/artists/ 瀬戸内芸術祭の展示場が燃えたらしい。しかしこのごろは、どうしてこの類の「外向き」な作家や作品ばかりなのだろうか。かつては芸術家といえば「内向き」が代名詞のようになっていて、基本的にはじっくりと自分と向き合い、葛藤し、模索し、世間の波に惑わされずに自分の世界なりを構築していく(かといって決して社会に対して何も考えていないということにはならない)タイプが大勢を占めていたように思われるのだが、今は完全に逆転しているように思える。いや、前からそういう「外向き」のアートはあったのだと思うが。・・・それはもしかしたら外向きとか内向きとかと云うよりも、どこかしらナイーヴで繊細なものや哲学的で不可解なくらい精神的に追求されたものが美術全体に失われてきているからなのかもしれない。(まあこう安直に決め付けたくないのだが、どうしてもたまに嘆かざるを得ない。この種のぼやきや愚痴の反論としては、石田徹也が居たではないかということもできるかもしれないが、だからといって、全然すっきりしない)
なんだかやはり、どうしても「プレゼンアート」「プロジェクトアート」「ワークショップアート」と名付けたくなるようなうそ臭さが鼻につくのかな?。どうしてもこういうタイプの「ゲイジュツ」には馴染めない。進んで入っていこうという気になれない。かといって、あんなに無造作に何百点も並んでいて、夫々がなにを表現したいのだか全くといって良いほど見えてこない公募展には(そして大抵は無自覚で保守的な匂いが立ち込めて居る)深い違和感がある。

ジャコメッティのような、須田国太郎のような、平野遼のような、深みのある、学究肌のアートにはとんとお目にかからぬ。こういうのは絶滅しちゃったのかな。