11月、画廊、展覧会、佐藤裕一郎、一色映理子



・先月から今月にかけても展覧会や画廊に行ったのだが、いろいろごたごたしていてなかなか書けずにいたので、少しずつ紹介しようと思う。




・佐藤裕一郎展(銀座・ギャラリー58)
なかなか迫力がある大画面。大きな青い空間に崇高な光が注ぐ様は一見アメリカ抽象表現主義を思わせるのだが、画面に近づくとかなりマチエールを作っていて、土着的なものも感じさせる。大きい画面になると、マチエールが必然性をもっていて光の崇高さを妨げてはいないが、ちいさな作品になると何故かマチエールと光との関係性があまり必然性をもってみえなくなってしまうのが残念。せっかくの滑らかな光のイリュージョンを妨げているとしかみえず、折角の綺麗になりうるはずの画面をあまり綺麗でないものにしてしまっているのがもったいない。
しかし佐藤ならではの魅力と本質は、抽象表現主義的なものではなく、実は洗練されていない土着的な、湿った重たい腐葉土のようなやぼったさのほうにあるのではないかとも思った。いずれにせよ崇高で滑らかで恍惚とした光のイリュージョン画面と、その土着性がどのように折り合って止揚されていくのか今後が楽しみでもある。
http://www.gallery-58.com/




・一色映理子展「この世界にふれるとき」(銀座・ギャラリーQ)
一色は、八年もの長い間祖父と祖母を題材に描き続けている。画面のなかに描かれている祖父母は決して美化されては居ない。時として、老いというなにやら忍び寄る黒い翳をいやというほど直視させられたりもするし、一見、少しシュールでグロテスクにも感じないこともない。
彼らは、寝室やベッドのところで横たわっていたり、抱き合っていたり、手を握っていたり、ただ居たりする。そして服装は寝巻きだったり下着に近いものであったりもする。総じて2人の顔の表情は鮮明ではなく(クローズアップされていても、どこかぼけている)、一色の地元である瀬戸内海近辺のあたたかい光の中に包み込まれるように祖父母は「生きている」が、しかしその光は2人の顔をさわやかに照らしては居ない。顔や手は逆光のことが多く、あくまで「翳」として存在しているようにみえるのだ。それがどこか不安にさせるのである。
彼らの「老い」の特徴が容赦なく炙り出され、それが時とすれば生々しくも感じられるかもしれない。しかしながら、一色の絵が飾っている空間に少しでもとどまっていると、その「老い」も「翳」も含めて、受け入れて、その上で穏やかに流れる時間に暮らしている祖父母と一色との「親和」という状況自体が浮かび上がってくるのに驚く。
糾われている血という繋がり、柔かくて、しかしカラッとして居る故郷の光と空気、そして老いの翳、静謐で限りなく穏やかな時間の僅かにたゆとう持続。それらをひっくるめて彼らが存在するということ自体の「状況」。
最近の一色の絵画には、だんだんと祖父母自体が直接的かつ演劇的?には描かれなくなり、そういう「実在」じたいの<世界>が、描かれるようになってきた。彼女が云っているように、<普遍的な光、生と死>そのものの本質的かつ抽象的な、核の部分に触れてきているのかもしれない。

http://www.galleryq.info/exhibition2010/exhibition2010-042.html