フラジャイル、北園克衛と橋本平八展



松岡正剛の『フラジャイル』を読み返す。一回いとこに借りて読んだのだが、この間ブックオフで売っていたので、購入し、再び読む。



北園克衛と橋本平八展(世田谷美術館


北園克衛の文字がたちあらわれる。橋本平八の黒い塊=魂。兄弟ということがわからなければ一見全く異質な作家同士なのだけれど、細やかな交流が交わされ続けて居たことが判る。同じ根から出てこのように違う花が咲くのだろうかという驚き。


ここまで凝縮することである重力を獲得できるのかというくらいの、どうしようもなくひとつひとつの説得力ある刻印された塊。ひじょうにちいさいのだけれどものすごく重たくて引力を発し続ける鉱石の如く、凝縮された鈍い輝きを発し続ける橋本の茶色い痕跡。橋本の作品は、とにかく手垢という手垢を、人生かけて作品に染み込ませるが如くである。円空仏にかなり影響を受けていて、実際に蒐集までしていたらしいが、円空仏よりも確実に湿気を多く纏っており、川底に長い間眠っていた流木の趣きである。橋本の「垢」の絶え間なく摺り込まれた集積が、宛ら流木に喰いこんでいる苔の堆積した層のようである。ぼくは、飛鳥大仏のアルカイックな貌を憶いだした。


北園の輝きは、しかし、とにかく、軽やか。浮遊してくる。そして網膜から脳内に、文字がふっとはいってきて、ついつい白昼夢をみさせられてしまう。文字がこんなにひとつひとつ浮きあがって白い紙から乖離してかってに動き出して、リズミカルに軽やかな音楽を奏でるなどいうことは、もはや文字という概念を覆す。一種の錯視を体験できる詩などというのに、このかた出会ったことはなかったが、出会ってしまったのだからたいへんだ。意味から解放された文字というのは、こんなにも美しい、魔法のような美術作品だったのかと思う。僕が、読み込もうと努力しないうちから、もう、文字のほうから、かってに、浸入してきてしまう。もう、そこから目が離せなくなる。

http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=69254