器用、不器用、態々前面に出ないと云う実力





・今日は副職。帰宅後制作だが、余りすっきりしない儘夜を迎えてしまった。それでも小さなドローイングを三枚描く。




・何故アートフェアの殆どの作品は、どれもこれもあんなにも技術があって完成度が高いようにみえるのに、殆どと云っていいほど「魅力的」にみえてこないのは何故であろうかと云う事を改めて考えてみる。
何のためにこのモチーフを択び、何のためにこの技術を駆使し、何のために描くのか?その背景が全く見えてこない事なのかもしれないと思う。アーティストが、「じぶん」にとっての必然性を感じていないのにもかかわらず、技術やなんやらが器用に立ちまわれて、それなりに巧い作品を創れてしまうところに問題があるのではないだろうか。

第二には、アジアの市場などの開拓により、ますます絵が「色のついた株券」化しているなかで、そう云うような絵が一番扱いやすいので、「コマーシャル」ギャラリーにはそう云う絵が並ぶと云うことなのだろう。結局アーティスト側の事情ではなく、ギャラリー側の事情が大きく反映されているところにアートフェアとかコマーシャルギャラリーの面白くなさの根源が有るということではないだろうか。あくまで作家が主役ではなく、ギャラリーが主役なのである。ギャラリーが主宰なのである。そして、ギャラリーが売りやすいような絵をコンスタントに描ける器用なひとが沢山揃っているという感じなのである。
そもそも、根本的に「ファインアート」の概念とは矛盾したまま無理やり「ファインアート」で市場を拡げようとしているのが問題なのかもしれない。少なくともその矛盾をちょっとでも自覚して居る(直視して居る)か、そうでないか、が、一流画廊とそうでない画廊の境目なのだろう。数あるギャラリーのブースのなかで、ひとつひとつの「作品」からギャラリーの顔ではなくて「作家」の顔が、自然にみえて来るような感じのブースになるには、相当な余裕と自信がないと出来ない芸当なのだろうと思った。
ひとりひとりのお抱えの作家の良さを前面に引き出すことに成功していて、ギャラリーのテイストがはなにつかなくなると云う境地までに達している画廊が、一流なのだと思う。


・作家の方も、「だれだれの作品」と云うアピールが巧いだけのうちは、二流なのだろう。「だれだれの作品」と云うことを忘れさせるくらい、作品自体が人になにか感じさせるものを創らなければ駄目のような気がする。「キャラづくり」の巧さだけでは、どうしたって二流である。況してや「○○画廊の作品」の範疇で留まっている作品などは、三流である。
今の時点で一流になれていないのであれば、下手に二流や三流で落ち着いてしまうよりは、無名無所属の方がよっぽど健全であるし、一流になれる可能性が有ると思う。




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