徒然千夜0004






<それ>は酸っぱくて重くて不定形だった








非常に酸っぱかったので吐き出そうと一生懸命努力したにもかかわらず、<それ>はいつまでもいつまでも『そこ』にあるのだった。寝ても覚めても<それ>はあった。結局、あらゆる努力を試みたのにもかかわらず、少なくとも一年以上は『そこ』にあるのであった。
或る日目覚めてみると、<それ>は増えて居た。ひとつだったのがふたつになっていた。いままでひとつのときは酸っぱかったのが、ふたつになったら不思議と酸っぱいだけではなく、微妙な甘さとハーブのような爽やかさも加味されていた。ひとつのときの酸っぱさには辟易していたので、寧ろ味に関しては歓迎したい気持だったけれども、なんだかまた、重くなったのがゆううつだった。<それ>は、確実に重さをも増していた。前日より、ひとつあたりの重さも確実に増えていたし、それがおなじくらいの大きさで二つあったから、重たくなるわけである。
その次の日、また増えて居た。こんどはよっつになっていた。今度は辛くて辛くて其の日はいちにちじゅう仕事にならなかった。しかし食欲だけはいつもどおりだったので、舌平目のムニエルを食べたのである。それがいけなかったのかもしれない。
またその次の日がやってきた。突然、数が数えられないくらい増えて居た。さすがに平然としてはいられなかったが、だからといって、どうすることもできなかった。異常増殖した<それ>は、みんな舌平目のかたちをしていた。そしてところ構わず這いまわっては、周囲を不定形なかたちにどんどん戻していった。まず、舌平目みたいなものが周囲に張り付く。そして、貼りつかれたところから次から次へと舌平目のようにのぺっとしたものに変容し、安定したかたちを失って、名付けられるいぜんのかたちに還元されていった。
もはや味はしない。無味無臭である。そして色も、最初は舌平目色だったのに、だんだんと透明になってきた。しかし重たさだけはのこった。
こんなに大量の舌平目と次から次へと不定形なかたちに還元されていくものを抱えているのだから、重くて重くて仕方ない。余りの重たさに耐えかねて、けっきょく生卵をふたつと、お茶漬け一杯だけしか食べられなかった。
しかし不思議だったのは、こんなに重くて仕方なかったのに、生卵とお茶漬けは普段通り、いや、普段以上と云っていい程に、美味しかったのである。それはいつもどおりの味よりもちょっとだけだったけれど、確実に美味しく感じられた。


その翌日起きると、もはや重たいなんてものではなく、そろそろ支えるのも面倒になってきた。もはや還元化は進みつくしたようで、かたちなんてものが何もなくなってしまって、『そこ』には重さだけが在る状態になった。しかし不思議と口の方の食欲は、相変わらずだった。パンとマーガリン、そしていちごジャム。普通に美味しく食べられた。でも、もう、出勤することはできなかった。


仕方ないので会社に「体調不良で休みます」と連絡を入れて、少しだけひとねいりしたら、軽くなっていた。いままで一年以上も悩まされてきたのに、ちょっと寝て起きただけで、すっかり軽くなってしまったのである。重さがなくなったら、あとはもう無味無臭で透明だったので、『そこ』にはもうなにもないも同然だった。


でも、『そこ』にはまだ、仄かな酸っぱさだけがの遺っているような気もする。もうすでにあの重さとか酸っぱさとかが懐かしくなっていることに気づく。何だかその感覚は、奥歯にするめがひっかかっていてずっと取れなかったのが取れてすっきりした途端に、口の中がなんとなく頼りなくなってしまったときのようだった。