頭のなかに浮かんだこと




・既成のものを「なぞる」ことによって、あらゆる記号的価値は無化し、垂直から平行に移行し、軸を失い、錯綜の渦へ還元してしまう。そこにはあらゆる色面とリズムと構成しかなくなり、反転し、意味も「不在」となる。菌類のようにあらゆるものを覆い尽くし侵食し還元し無化し、材料へ戻す。原理的な素材が露出する。骨組みが現れる。原始、原子に近くなる。
そして、「わたし」と云う人間が主観的にそれを無化する。




・日常的に写真を撮ってきたものをあらためて見直す。ランダムに撮って居て気に入ったものをブログに載せていくだけなんだけれども、どうもじぶんの好きなものと云うのは「変容」「境目」「透明(虚実)」「流動」「明暗」「亀裂」「反転」「ずれ」。そう云うものが好きなのだと思う。と云うよりも、そういうものに関連・意識して居ない写真を探すほうが難しいことに気づく。無意識だったのだが、やっぱり無意識だからこそそういうのが出て来ているのだろう。記号化されたもの、秩序だったもの。既成のもの。それを再び境目の部分に引き戻して考える。なんだ、「なぞる」の作業とやっぱり通底するじゃないか。
それを構成しなおしてじぶんの枠に置き換えるところまでも。



角界とか貴族皇族とかサーカス団とか非日常に近い日常が存在して居るのはやはり社会にとって非常に大切なことではないか。抜けになる。時には叩かれるけれども、やはり滅ぼしてはならない。(たぶん芸術や学問等の人種もこれに近いだろう。)
昨今の、一時的に非日常になるような、祭りやイベントばかり大切にされるが、それだけでは「抜け」切れないと思う。
老人と云うのは一般人に比べて、働いていない時間を過ごすことが多いだろう。要するに一般の社会人などにとっては、非日常に近い日常を送って居るのではないかと思う。老人は増えている。老人の世界を充実させる手だては、其処にあるのではないか。子供も然り。


・過剰な日常が持続し続けることで、非日常みたいな日常になった「渋谷」は疲れる。都市の錯綜空間やネット空間などの帰結による、「過剰」や「無化」と云うのはどういうふうに考えたらよいのだろう。バーチャルな空間としての日常も。




・もちろん新鮮なのや旬なもの、ブランド物もいいが、「腐りかけのもの」や「未成熟なもの」の魅力と云うのはなかなか一筋縄にいかない深みやコク、味、ずれみたいなものを味わう事が出来る。もしかすると腹が下ってしまいかねないような危険を孕んだ、或る意味まっとうでないような、いかがわしいところと紙一重のようなものと云うもの。「毒」にも「薬」にも、清濁合わせ呑んだような、流動的なもの。何かしら「欠けている」と云うような。併し、その「欠けている」が魅力にすり替わってしまうようなもの。負のオ―ラが反転して崇高なものになってしまうような。ブルーチーズとかピータンとか、フォアグラとかアン肝とかユッケとか馬刺とか酒盗とかくさやとかホルモンとか銀杏とか。(併しらっきょうだけはどうしても無理だ)
未成熟なもののまま閉ざされたピクルスのようなねじくれた食べ物も良い。ベビーコーンとかプチトマトとか金柑なんかもいい。
多分こう云う、饐えたものが寧ろ美味しさにつながるような魅力とか、一瞬しか食べられない儚いような危険なようなものとか、普通だったらまだ食べられないくらいなものを敢えて喰う。ようするに安定して居ない、揺らぎがあるのが、好きなのかもしれない。十年くらい前に中国に行った時に大衆食堂に入り、ばかばかそう云うものを喰らったけど、有り得ないほど美味しいのばかりで、あれは夢のようであった。十日間ずっとそんなものを食べ続けて居たけれども、腹はこわさなかった。



・酒呑みなんである。酒と云うのは、やっぱり反転されて変容するし、不安定にもなるし解放される。危険も伴うけれど、絶妙なものが生まれることもある。やっぱりそう云う酒には、そう云う食べ物があるのだろう。



もちろん、松坂牛のサーロインステーキとか大間でとれた鮪の大トロとかそんなものは好きにきまってるんだけど。





・恥ずかしさと云うものは、じぶんのスタンスは何か、責任はなにか。何をもってそれをやっているのか、そう云うものを判ろうとしないと出てこない気がする。
根なし草のような拠りどころのなさのようなものが、三年前くらいにはあった。そして二年前なんかは明確にそれに気づき、何とかかんとかそれと向き合おうとしていた。いつのまにか、そのような感覚はなくなっていて、たぶんじぶんのスタンスと云うか、「核」のようなものが育ってきていることに気づく。その代わり「恥ずかしさ」みたいなもの、「痛さ」みたいなものの苦しさみたいなものと向き合わなくてはいけない。
じぶんが批判されることに対して、じぶんのことを批判されているんだと云う、或る意味当たり前のようなこと。それと向き合う。じぶんがなければ、たぶん批判もされないだろう。


楽天家であることと、無自覚無神経であることとはリンクしないけれども、リンクしてしまうこともあるので気をつけなければいけない。楽天的なほうが行動力も増すし、決断もしやすいし、実現できやすいことも多い。それに加えて繊細であれば申し分ないだろう。併しなかなかそのバランスがうまくいかないものである。
まだ私は、楽天的に行動(表現)していく時に無自覚無神経であることもあるので、あとでぐちゃぐちゃと内省したときに(ほんとうは些細なことかもしれないけれど)ものすごく恥ずかしくなることもあるのだ。ほんとうは最初から神経を張り詰めながら楽天的に行動出来ればいちばん良いのだろう。そうすれば、あとでそこまで恥ずかしいことにはならない。事前に恥ずかしい事をもっともっとじゅうぶんすぎるほど自覚しながら、そこから眼を逸らさずなおもそれを突破するような神経の勁さと繊細さを求められる。




・この頃はたぶん迷ってはいないのだ。ただそこらへんの折り合いで、どうしても行動できなくなったり、行動はしたけれど物凄く内省しすぎておかしくなったりするのだ。


・「じぶん」に折り合いをつけて、尚且つ他人や社会、歴史、システムのことまで慎重かつ繊細に、然も大胆に、そして主観的かつ客観的の幅を拡げていくこと。「批評」。






シュルレアリスム、そしてデュシャン、ケージ、さらにはドゥルーズはどこでどう錯綜するのだろう。バッハと。