写真と≪砂の女≫





・写真を並べるときは、一枚抜かすかどうかだけで全然違ってきてしまう。ただの混乱になってしまうことなく、画像たちがどう流動的に蠢き連関できるかなのだ。ただ一枚だけ違って居てもなんだか雑に見えたり頼りなく見えたりしてしまう。また、どんなにみても、並べた瞬間は、判らないものだったりもする。調子悪いときはやはりいまいちである。
今日は比較的調子よく並べられたが、最初に並べたものをあとでみたら、なんとなく雑な感じに思う。そうしたら二枚目がどうも全体を雑にしてしまっていることに気づき、削除したらすっきりした。相互に程よい繋がりを示しつつ、ひとつひとつの写真の輪郭がしっかりしてきたように思う。そのまえの「日常写真」も思い切って六枚減らしてみたら、じぶんのなかでしっくりきた。なるべく最初とは変えたくないのだけれど。


・≪砂の女≫(勅使河原宏監督)を観る。安部公房原作脚本、音楽武満徹、デザイン粟津潔岸田今日子が一番初めに出てきたときはなにか違和感があったが、あのびくついた表情があらわれたらもう、砂の女にしかみえなくなってきてしまう。確かに「三十前後」と若いのに「ばあさん」なんて呼ばれて違和感なく、奇妙な魅力をみせるのは岸田をおいてだれが適役なのだろうかと思う。(ただ、私のなかの砂の女は、もう少しふくよかで比較的丸い、目はひとめで終始上目遣いと云うイメージであった。)原作を読み返したばかりだけに、省略変形されている部分が気になることもあったが、全体をみれば気にならないか。
それにしても、私が思い描いていた『砂の女』に、あの小屋の外観や砂の上の村人たちなどは殆どぴったり当て嵌まり吃驚する。まさにあの角度で、ああいう風に想像しながら読んでいたのだから!それはやはり安部公房の描写が非常に視覚的にも優れているということなのだろう。
ただやはりあれは、もちろん原作ありきの映画であって、あれを観ないほうが原作の様々なイメージを限定されないのでいいのかなとも思う。映画化するのであれば、寧ろ安部自らが脚本をやらない、思い切った意訳の≪砂の女≫を見てみたいきがする。