久しぶりに美術畑





・最近我が家の中でカメムシが湧いて出ている。二匹捕まえてゴミ箱へ屠ったが、残り一匹は放し飼いにしてある。夜中こうしてパソコンを打っていると、天井ら辺でぶんぶんたまに飛ぶ。煩わしいけれども、あえて捕らないでおくのもいいだろう。そう云えば今日、新宿中央公園を通ったけれども、はじめてミンミンゼミの声を聴いた。


・木曜日、大学の授業カリキュラム最終。軽く打ち上げ。愉しい。金曜日、大学の合同採点、三人で二クラス分の採点。私の教えたクラスは非常に優秀だったので嬉しい。最初の課題は、学生の三分の二以上が最高点!



・土曜日、六本木に具体美術展を観に行き、その足で新宿のユミコチバに行って、桝田倫広、沢山遼、野田吉郎、森啓輔の四人による「高松次郎」の対談があった。四人ともども高松次郎に関しての論考を書いた上での対談だったので、その解説のような体裁であった。高松次郎のスタンスや変遷、高松批評に於けるキーポイントなどは非常に端的に判ったのだが、彼らの力説するような、既成の高松批評を凌駕するような冒険的な観点からの話が少なかったのが残念と云えば残念。まあ、一時間半程度の対談では、それが限界かもしれないけれども。
そのなかでもさすがは沢山遼で、非常大胆な論評を繰り広げようと孤軍奮闘していたし、他の論者の説に対しても積極的に自分の見方なりを提示していて、好感が持てた。学術研究的な精確さばかりにどうしても陥りがちな評論界に対して、意識的に「もののみかた」の切り口を絶えずアグレッシヴかつ挑発的とも云えるくらいに探究し提示する姿勢は一貫して失われていないように見えた。特に後半の、高松とポロックの親近性の考察、そして最晩年の作品の共通性などの提示は、かなり重要であると思う。
桝田氏は、持ち前の誠実さで、理論のための理論に陥らず、自分なりの切り口を探し、それを糸口として論を展開していった。高松次郎工藤哲巳との比較を、「増殖」と云う観点などをキーワードに切って見せていたが、そこまでは面白かったのだけれどもうひとつ論点なり自分の仮説を上乗せしてほしかった。高松や工藤が歴史に回収されてしまい、紋切り型の評価になりがちなところを、どこまで崩していけるかと云うことだった。彼の論文はまだ読んでいないけれども、ざっくりした説明を聞く限りでは、容易に私にも論点の切り口の妄想が浮かんできて補足したくなってしまう余地がかなりあった。国立近代美術館研究員として、更に踏み込んでいってほしいところである。今後期待がもてるのではないかと思う。

森氏と野田氏は自分自身の論考の要約と云うか、筋道のための筋道をたどるのがやっとやっとと云う態で、ところどころ面白い切り口は提示していたのだが、若手有望美術批評家の切れと云う点では、沢山氏に後れをとっていたし、実感的なもののみかたや思い入れでは桝田氏のほうが伝わってくるものがあった。





購入
『「具体」―ニッポンの前衛 18年の軌跡』 国立新美術館
国立新美術館開館記念展 20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―』
『FRANK DARIUS TUNICHTGUT』 KRUSE
『画家と画商と蒐集家』 土方定一著 岩波新書
『物語 イタリアの歴史』解体から統一まで 藤沢道郎著 中公新書