ワークショップとかイベントが、アート?



・いまはワークショップや、イベントなどの、「世間とのかかわり」を重要視していくような「アート」が人気だけれども、僕はあまりそれに対して、敬遠してしまうのは何故なのだろうかということを考える。
結局僕は前述のようにあくまで「自分」の内面から出てきたものを吐き出す、というのが自分のベーシックな部分になっているのだ。徹底的に自分の「主体」を研ぎ澄まし、内面から出てくる不思議なものや疑問などに対峙することにより、結果的に「普遍」にまでナニモノカが到達し、それが人の心をうつ、ということが、やはり藝術であると思っているからではないかと思う。
それは、ちょっとしたイベントやワークショップなどの仮設的なものよりも、継続した時間の重なりで到達し集約された、ひとつのオブジェなり平面なりを観るほうが、よっぽど自分が心地よいからと云うことにも繋がる。大抵のイベントやワークショップはそういった意味での深い感動までは呼び起こせないし、「こんなにすごいことやりました」という結果報告のほうが主流になっているような気がしてならない。特に最近は写真やパソコンの技術やなんやらが発達して、いくらでもすごいポートフォリオが創れるようになったし、いかにわかりやすくコンセプトを伝えられるかといった「プレゼン」的アートが主流になってきている。
それによっていくらでも「捏造」できるようなシステムになっている。それに対してやっぱりある意味オブジェなり平面なりは、「イリュージョン」かもしれないけれども、「作品」として公に出された後は、もうそれは作者から離れてひとつの世界として独立するのだ。その強さというのはやはりいつまでたっても根源的に魅力的なものであり続ける。



・簡単に「啓蒙」に堕してしまう、という危険性も孕んでいる。かつてどこかの小学校の生徒達が、社会科見学か何かで老人ホームを訪れ、車椅子に座った複数の老人の列の背後から、複数の小学生が列になってベルトコンベア式に老人の肩を一回ずつ叩いていくシーンがNHKのニュースで放映されていた。そういうことが老人に対しての「孝行」であり、「福祉」だと考えている馬鹿ばかしさ。一年に一回かなんかの社会科見学で「老人ホームに行って老人の肩を叩きました」といって、先生達は満足するだろうが、学校の点数稼ぎにはなるだろうが、実質的にはそんなものは子供の教育にも何もなっていない。そういううわべだけの「孝行」とか「福祉」とか「教育」というのと、なにかちょっと似ている気がするのは僕だけだろうか。
というわけでなんか、どうしても、イベントやワークショップっていうのは、僕は敬遠してしまうのである。



・ほんとうに心より素晴らしいそういうのに出会えば少し違うのかもしれないけれど、多分それはものすごく時間と金と人を惜しまないでやったものではないと、それなりの強度にはなりえないのではないかと思う。クリストくらいまでになれば、少しは説得力があるのかもしれない。今のイベントやワークショップの殆どは、何とか続けるために汲々として、人間の根源的な部分にまで訴える力はないに等しいんじゃないかという気がする。
美術館や行政がお金が無いけれど、市民とか子供と触れ合うという名目を誰も否定する人はいないし、なにか成立しちゃうから、手軽にやれてしまうから、夏休みあたりにそういうイベントアートを乱発しているんじゃんじゃないかと勘ぐりたくなる。
でも裏を返せば、何かの「宣伝」には非常に都合が良いシステムということは確かで、お金が無いけれどもなんか世に出ようと云うときには、利用できるかもしれない。