レトロ



・無用ということ、それは生産性ということから一旦は切り離されてしまうような類のもの。有用的な観点であれば、「より」有用なものが見出されることにより、今まで必要とされていた有用なものは無用なものとなる。ありきたりにもなるし、つまらなくもなるし、無駄だともされるかもしれない。


・併しながら、時が経るとその無用性によって淘汰された結果限りなく縮小されたというその事実によって、無用の美学は生まれるのである。無用と云うものは、淘汰されることによって価値が出るのである。無用は、ほんとうに無駄だったら、最初から無なので、生まれるものではない。無用は、かつて有用だった(と思われた、だれか一人にでも)から、無用という限りなく縮小された有用性を帯びている継続的な事物になったのだ、それを人は「無用」と云うのではないか。(あっさり捨てられて消失してしまえば、やはり「無」になる。)


・レトロ趣味と云うことについて考えてみる。もうそれは殆ど残っていないものが残っているという稀少性と、かつてそれがあったのだという郷愁、そしてそれを再現しようと試みる蒐集の行為、等々。一旦は生産的な事柄から徹底的に排除されてしまった。もはやそれは亡霊のようなものであるのかもしれない。しかし燻し銀の様な魅力は、確実にそこに「残ってきた」。それはやはり継続して「必要」とされてきたものなのであった。限りなく縮小していったけれども、細々と延命して、繋がってきたということ。脈々と。それは、当たり前だが出来合いの「レトロ」ではない。


・然らば、一度も生産的な事柄に向かず、日の目を見なかったような、最初から「レトロ」のような属性を帯びてしまっているようなキワモノはどうなるのだろうか。しかしそれも、「残る」ということによってやはり「レトロ」になるのであろうか。それはそうだろう、しかも残るということが珍しい位置になればなるほど貴重なのだから、その価値は限りなく高くなる。レトロになってしまえば、すごく生産的なことを必要とされていたものほど、時代が下っても価値はそんなに高くはならない。たまに古本屋で落丁本などが珍しいので、すごい高値がつくのと一緒である。


・価値が反転する。ゴッホの絵の値段の凄さ。それは生前1点しか売れなかった、日の目を見なかったというその事実。しかしゴッホは描き続けた。それが細々と残った。それは悪趣味の下手糞画家が、超巨匠になったということでもある。生前はゴッホは巨匠ではなかった。ゴッホは現実に生きた中で、殆ど流通性が無かったのにもかかわらず、死んでから亡霊になってみると、百年も市場すらも支配してしまった。それを観た多くの生きた画家が、生きているうちに「ゴッホ」を参考にして、生きたまま有名になろうとする。


・人間が、生きながらにしてレトロの属性を帯びること、ということにも考えを拡げてみる。


・「伝統」  相撲  古本   トマソン



・何事にもどこか突き抜けないと、いけないのだろうか。フレキシブルに、高速度に思考し続けながら、割り切らないまま、不純なまま、あっちこっちにばったんばったんぶつかりながら、いつかは突き抜けるかもしれないと思って。