エスキス



・ジェネラリストとスペシャリスト
本来の質としてスペシャリストがジェネラリストを兼ねるよりも、ジェネラリストはスペシャリストをも兼ねる、というほうがしっくりくる。

・プロフェッショナルとアンチプロフェッショナル(アマチュアリズムと云うよりも)

・反体制、体制←→それ以後
        ↓
        ?

・普遍/貫流/脱境界/地平/マージナル/トリックスター(異人、マレビト)/攪乱/一元、二元、多元、全一/ハレとヶ
・スキゾ/戯れ/邪ま/斜に構える/ハザマ/無意識/氾濫/異化/可能性/無駄/あすなろ物語/教養/目利き/アイロニー/ユーモア/戯画化/笑い、嗤い/世間/風潮/流れ(流行)/ゲリラ/先鋭化/特殊化/合理化/構築/限定/意識化/具体化/組織化/党派/具現/理想/目的/意味
・「歴史」という意味・Nの云う「呪い」

・アカデミック/玄人・素人/芸術・職人/デザインアート・ファインアート

・責任/主体 「個人」「私」というものの捉え方 何のために集う?



・自己の「立ち位置」をはっきりさせるということに決然として責任を負うことによって、自己を限定させたところから、初めて外部に向かって何かものを云うことができるのではないか?併しながら、それを限定せぬまま、いろいろな視点から、角度から、その都度、何かに対しアンチテーゼを唱えるということは、少々ずるいと云わざるを得ないのではないだろうか?というようなことを、端的に云えば、Nが僕を批判したという風に理解する。


・・・確かに相撲でも、或る「型」というものを身に付けてから非常に出世が早くなり、かえってそれが「個性」となり、強靭な足跡を残した兵どもは多いだろう。継続した、構築したものになりうるということは事実である。自分は、世界の一部分でしかない。併しだからこそ、主体であるために自己というものを専一化、具体化する事により世界の中の「個性」として輝くことが出来るだろう。世界の一部分でしかないという謙虚な自覚があればこそ、自己の生きている「意味」「目的」ということが必然的にカオスの中から浮かび上がる。その浮かび上がった道を堂々と歩むこそ、大河の中の一握りの砂である筈の自己なりの、(いや、だからこその)強靭な「歴史」を構築できるだろう。人間の生と云うものは、余りに短いのだ。
カオスの中の可能性に何時までも浸っていては、そのささやかな自己の「個性」すらも発揮されずにすぐに終わってしまうのだ。もっと、生きているということ、既に生に束縛されてしまっていると云う事、それ自体を大切に自覚して、それを何らかの輝きに置き換えること、それが「人間」足るものの役目なのである。だからこそ、数限り或る可能性のなかに於いて、早めに自己の「型」を見つけ出し、自分と言うもののちっぽけなものに適合した「もの」を見出して専一に磨き、精一杯生きると云う事。積極的に実行していくこと。これは、個人というものの「王道」なのではないか・・・・


・・・しかしそれは、多分に観念的な見方ではないのだろうか。自分がどんなに卑小な存在だろうと、ただただ、終わりなき日常と云うものは、自己の目前に、展開されているのである。日常の何気ないもの、ささやかな、ほんのささやかな数限りない可能性は、やはり視点のずらし方によって、見えてくるものであったり、みえてこないものであったりするだけなのだ。
総合的な、大きな「意味」以前のベクトルによって、人間は、ただただ、生きているのである。プラスでもマイナスでもなく、居傲でも卑小でもなく、ただただ、存在しているだけなのである。何か巨大なものや意味や理想などを追いかけなくとも、そこにもう、存在している。そのことにその都度気づくこと、それが、「人間」が「世界」というものの中に居るという自覚を齎すものなのではないだろうか。その「気づき」によって、「関係性」のなかで閉塞していると思われたり、「絶望」してしまったりするなかで、どれだけ救われるだろうか。新幹線や飛行機も良いが、鈍行列車の旅も悪くないだろう。
ひごろ、目的を達成するために齷齪頑張っている人は輝いているように見えるが、何かを強烈に具体化・実践していくには(仕分けのように)削ぎ落とさざるを得ないし、(削ぎ落としたものの)対立したものを常に叩き落していかざるを得ないだろう。「理想」がある人は、「理想」の形ではないものを必然的に排除し続けなければいけないように宿命付けられているように思う。それは、必然的に周囲の人をも自分のピラミッドに吸収するか排除するかという二元論に容易に置き換えていって、統御していくだろう。その「理想」のために、その人も、かの人も、みんな巻き込まれ、ストイックに追求し、また、争わざるを得ないのだ。
しかし、その「理想」というものを一旦置いておいて、ただ見る範囲での、自分の知覚する範囲内での、そのものの、美しさ。興味深さ。面白さ。豊かさ。これを注意深く次々に見つけ出していくと云うほど、生きると云うこと自体を自覚し、みつめるということに於いて「常」にしっくりと豊かに生きていけることはないのではないだろうか。そういうことをついつい忘れ、「理想」を押し付け、相手を叩き落そう貶めようとするようなベクトルには、やはり過敏にならざるを得ないのだ。従って、私が人に何か批判や抗議をするようなときは、そういうベクトルの危機に晒されているときのみである・・・


・・・だが、その論自体だって限定した論理になってしまっている筈で、意前者の意見と後者の意見を等価としたならば、けっきょく「ベクトルの危機に晒されているのみ」なんていっても、意見は意見に過ぎず、多かれ少なかれやはり「理想」の押し付けなのではないか、と。発言、批判した時点で党派的な色合いはどうしても付与されてしまうのではないか。その辺はどうなのであろう?その問題が解決しない以上は、前者の意見のほうがやはり優勢のような気もするし、後者のスタンスをとるのであれば、前者の「押し付け」を感じたとしても、批判するという資格はないのではないか?・・・

云々。


蓮實重彦福田和也 サルトルとポンティ

・感情と理性との関係。
アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り』

・価値の構造的な枠組みにおける変遷

・大相撲(アラザル4→。私の根源探索)/赤瀬川原平、前衛R70展


止揚


・批判対象としてその人自身までを範疇とするか、それとも、そのテクストを批判するのか。その境目。そこを今一度鑑みるということ。その辺が自覚なしに未分化のまま批判するということは議論を混迷に陥れることにもなるかもしれない。しかし、私の意見としては、やはりその人自身までを想定した上での「批判」というものというのは「あり」だと思う。ただ、その境界線を今一度思考しなおさなければならないということだ。