好き





ホセ・ルイス・ゲリンの≪シルビアのいる街で≫を観る。
ヨーロッパ以外どこでもない、たぶんフランスであろう都市。堅牢でシャープだが乾いた暖色と象牙色が基調の街。雨は余り降らず、地中海性気候的な感じだがたぶんそんなに暖かいところではないだろうと思われる。そんな街で主人公がひたすら、過去の女を恋求め、追いかける。青い光、彫像のような男、硬い表情、ベッド。カフェ。二重。女と女、女と女。硬い男、視線が動く女。崩れかけた表情の危うい女。無視。慌ててビールをこぼす。デッサン、デッサン、デッサン、女、デッサン、女と女、ざわめき、デッサン、女。女、デッサン、女、デッサン。都電。ビール。物売り。ジュースじゃない。街のざわめき、ささやき、おしゃべり、物売り、瓶が転がる音、ビールがこぼれたあとのグラスの音の響き。標識。街のざわめき。シルビア。あしおと。ひたすら続くあしおと。びっこを引く男、自転車、女、女、女、老人、浮浪者、自転車、老人、主人公、女、女。六年前の恋。ヴァイオリン。あしおと。硬い表情の男。動かない。二重写しになる女、女。硬い表情の男。視線でそれを観る女。びっこをひく男。女、クリーム色の街。記号。あしおと。雑草がない街。ひたすら亀裂がない石造りの街。雨が降った後の石畳の窪みにたまった水が少し残る、瓶が転がる。都電が通る、新しい都電。巻かれる。見失う。あしおと。シルビア。たばこ一本くれない?東京では絶対に現れないであろう新しい都電。家をみつける、ガラス、ガラス、広告、雑誌の女が画面の右端で笑って居る、呆然とした男、広告、女、広告、女。今朝摘んだものだよ。窓。着替え。果物。石畳。再び歩く。女。歩く。歩く。演劇。目当ての女は人違い。最悪だ。ごめん。いいのよ。最新の都電。ふたりの後ろに石で造られたクリーム色の街が移ろってゆく。標識。クリーム色が色調。老人。杖を使う男。飛行。背広姿の男は一切出ない。都市。ひたすら都市。女。物売り。ガラス。多重。硬質。ざわめき。雑誌、ブランド、サングラス、都電。背広姿の社会人の男は居ない。たばこ一本くれない?バー。揺らめき。酔い。硬質な酔い。硬い表情の男。男は女しか考えない。非日常の日常。都市。六年間。デッサン。女。デッサン。パリッとした白いワイシャツが少しぶかっこうに大きくて、はだけている、デッサン、ガラス。記号。ざわめき。標識。広告。老人。雑草がない。川。
これは傑作。
都市は、ストラスブールとのこと。





・今日も雨。昨日は南行徳。フリードとクラウス論、林道郎クールベ。『線の音楽』近藤譲。フェルドマンを聴く。メールの返信。エゴに就いて。



・たとえば付き合って居た男の悪口を他人に云う女。何のために云うのか?家族の悪口、親友の悪口、恋人の悪口。深い関係になった人は絶対に悪いところがみえて来るのは当たり前。それを言い触らしていて、同情を買っても、結局じぶんで首をしめることになる。信頼している人の足をひっぱる。深い関係や愛情、友情と云うものがどうしても判らない哀しさ。悪い処だけを誇張して繋ぎ合わせれば誰でも犯罪者まであともう一歩まで追いつめられる。信頼する人の悪口を云って信頼する人を追い詰める。それを同じことを繰り返す。そう云う奴を「馬鹿」と云う。たとえばのはなし。




・じぶんの中から何かの物語(例えば魑魅魍魎とか)が湧いて出ると云う事があまりない。あくまでも現実・外部から何かを思い、想像し、妄想するのだ。
友人で凄く妄想野郎が居て、そいつはじぶんの内部の妄想で活きる。家の中には青いカーテンと辞書が何冊かと、机と椅子、冷蔵庫と僅かな食器くらいしか見当たらない。僕にはそんな風には生活できない。たぶん仕事も限りなくじぶんの中から湧いてくる妄想からちょっとでも距離をおくのに適しているのだろう。カフカ的な、非常にストイックな生活をしている。

さみしがり屋と云うのも、好奇心と云うのも、誰かを凄い好きになると云うのも、情報や外部の出来ごとに対しての関心も、言語や歴史に対する関心も、たぶんあまり内的な妄想が「わいて」こないからだ。だから外部のことに非常に影響を受け、神経を使うのだ。作品も、あくまで外部からなにかを解釈したもの。観たものを解釈したもの。実は、リアリズムが好きだ。じぶんの妄想で絵が描けない。妄想だったら、偶然を頼るし、そちらのほうが全然うそくさくない。そのかわり、外部に対することから発生する妄想は人一倍である。
たぶんおおかたのファインアートをやって居る人たちは、じぶんの中の妄想が限りなく湧いてくるひとたちが多いのだろう。それが僕には人や外部に全然好奇心をもっていないようにみえるだけかもしれない。僕にはそれがエゴの塊にみえてしょうがないのだ。あのどこか冷たい膜のようなものはたぶんそれだ。たぶんみんなさみしくないんだ。(そう考えるとゴッホと云うのは、外的な事象に非常に囚われている人間だ。あれは内的な妄想が限りなく湧いて出て来るのではなく、外的からの妄想なのだと云うのがよく判る。誤解してはいけない。ピカソも実は徹底して外の妄想の人間だ。では、内的な妄想が湧き出るタイプの芸術家と云ったら誰だろう?たぶんボッスのような人?)
何か本質的に違うものかもしれない。あ、あまり「フィクション」を創れないんだ。


・ただ僕のは、外部からのものを「観る」「解釈する」と云う物心二元論的なものではなくて・・・いや、それが基調になって居るのかもしれないが・・・でもそれから外部の事象に対して身体をぐいっと迫る・・・つまり、じぶんの身体と外部の境界を無化したいのかもしれない。併し無化しても無化しきれないもの。憑依しても憑依しきれないところに、ずれとか亀裂が出て来るのだ。
それが生じないのは詰まらないし苦しい。憑依しきれてしまったらつまらないじゃないか。