メモ




・爽やかな、でもちょっと暑い日であった。体調は頗る良し。布団を干す、洗濯をする、喫茶店と古本屋に行く、紅茶を十杯、緑茶を五杯、珈琲を一杯飲む。夜、絵画教室のパンフを制作、ブログに就いても調べる。油絵を制作する。電気代を払う。


購入:
『建築家という生き方』日経アーキテクチュア編 日経BP
『日本近現代史小辞典』竹内理三・田中彰・宇野俊一・佐々木隆爾編
   




磯崎さんの批判として一般によく言われるのが、理論と実際とがかみ合っていないのではないかということです。理論はだれも文句がつけられないような、世の中をリードするようなレベルではあるけれども、実際の作品は必ずしも追い付いていないように見える……。これは悔しまぎれの批判にも取れるのですが、こうした意見にはどうお答えになりますか。



 僕は逆だと思っているんです。理論の方が遅れている。なぜかと言うと、僕の文章を通じての理論的な建築は、手探りで設計して形になって立ち現れたり、その出来上がる過程で落っこちたりしたものを、その後にあらためて反すうして、組み立て直したものです。
 やったものは常に50%の間違いと50%のどこか確実な部分で出来あがっているものだと思います。その間違いの部分は全くの間違いと、もしかするとそれは反転して最も面白く見えてくるものかもしれないという予測不能な部分を持っています。
 それが嫌いな人と好きな人、面白いと思う人とだめだと見る人。いろいろ分かれるところでしょう。でもその50%の間違う部分を僕から取ったら、僕は僕の事務所を含めてごく常識的な存在になると思います。常識は心得ているつもりですが、どうしてもその残りの間違いになり得る部分をやりたい。そして間違ったか間違っていないかというのを後で整理しているのが僕の文章なんです。




『建築家という生き方』日経アーキテクチュア編 日経BP
磯崎新氏 実物ではなくコンセプトこそが歴史の中で生き残る」より