耳のおかしさ/批評、の脅かさ





・金曜、朝起きた途端になんだか頭の感覚がおかしい。左の方がもやっとした感じでどうも変なのである。左右のバランスがとれない変な感覚で、卒中かなんかで倒れるのではないかと思う。ベッドから降りて朝ご飯を食べ、テレビをつけて時間を経過しても何だかおかしい。パソコンで色々文字を打った途端にその変な感覚がよく判る。どうも左耳がおかしいのだ。別に聞こえなくなっているわけではないのだけれども耳に水が入ったような、高い処に行って耳の感覚が狂うような感じに近い。
昼過ぎ、外に出る。本格的に暖かい陽気。ダッフルコートが暑いくらいだ。良い陽気なのでama2k46に電話をしてみたら繋がる。いったん繋がると彼とはいつも二時間三時間話してしまう。今日も例外なく二時間半喋り尽くす。今まで思索してきたことや流れ、そして彼の方向性等、さらに世間話も含めてやはり良い話ができたので満足する。気が付くともう四時であった。
夕方になりベローチェに行く。ama2k46と話しているうちに耳が治るかと思ったら治って居ない。相変わらず変な感覚の儘現在に至る。途中左耳ががさっといったときは治るかと思ったのだが。今の時点ではどうやら右耳の方がおかしいような気もしてきた。
兎に角この不安定な感覚では本にもあまり集中できない。たいして読めず家に戻る。家に戻りこのブログを打って居るのだが、結局どこにいってもこの感覚がつきまとうので困る。じぶんじしんの中のことだけに、逃れることができない。明日明後日も含めてこの感覚でずっといたらなどと考えるとぞっとするが、案外このままでも慣れてしまうのかもしれないと思うともっとぞっとする。
たぶん花粉症で鼻をかむようになってきたのが原因かもしれないが、まだまだ今年はそんなに激しくないのに、どうしたと云うのだろう。






・木曜、水田紗弥子企画<入る旅人 出る旅人>vol.2ろばの空間 のオープニングパーティーに顔を出す。会場は大森の、東京くりから堂と云う古本屋。いわゆるお洒落な古本屋さんなのだが、西荻にわとり文庫や大泉のポラン書房などと同じにおいを感じる。そうしたらにわとり文庫のタグが貼ってある本を発見。あとで調べてみると提携して古本市などに出して居ることが解る。
実はどうもこのお洒落路線の古本屋は苦手だ。非常にお洒落でいかにもカルチャーです、そしてロマンティックですと云って居るけれども、値段の方はしっかり抜け目ない。然もちょっとファッションで本を読むことが好きな人が非常に萌えそうな置き方や揃え方なのである。寛ぐところですよ、寛ぐべきなんです!!と云われているようで、反対に物凄くアウウェイな気分になってしまう。すごく主体性がありそうで「お洒落古本屋」と云う範疇を全く脱して居ないことが、かえっていかがわしく感じてしまう。じぶんなりの哲学が全く感じられないのだ。そう云う意味ではこないだ忘れものをした大森駅前の松村書店のイイカゲンなのに凄くいい空気が通っていて、おばさんもとても感じのいい知的な雰囲気が感じられるのと、対照的である(ちっとも良い本がなさそうで、文字通り「掘り出し物」が二冊もあった!!)。
<東京くりから堂>、なるほど良い本が全く揃って居ないと云えばそうではない。「それなり」におさえてはあるのだ。それに京都学派の全集等があるのは流石だ(但し七万円じゃ買える筈がない)。ただ、本を買いたくはならない。本のレベル的にも、お洒落路線で行くなら西荻窪音羽館や阿佐ヶ谷銀星舎くらいにならないとお洒落な雰囲気でなおかつインテリ層に、高い値段で本を買わせることは到底できない。(音羽館や銀星舎は「それなり」以上のクオリティーを万遍なくそろえている。勿論それでも「お洒落」と云う事を抜きにした場合、ささま書店や都丸書店の一部ジャンルにはクオリティーかつ品揃えかつ回転かつ値段ともに及ぶべくもないが)
ちょっと知的雰囲気が好きな女の子をくどく為の、軟派な(と云ってもあの辺の独特な)雰囲気知識でかどわしている、としかみえぬ。それはそれで商売は成り立ってそれなりに繁盛するかもしれないけれど、もしかしたらその方が繁盛するかもしれないけれど、それは商売のための商売としか思えない。



それは、VOQと云う音楽家と松本力のライブパフォーマンスが行われたときにも感じてしまう。松本さんの映像の絵はいい(押し付けがない)のだが、VOQの声はどうも「ちょっと知的雰囲気が好きな女の子をくどく為の、軟派な(と云ってもあの辺の独特な)雰囲気知識でかどわしている」ような感じがしてむずむずしてしまう。vol.1ろばの道の会場である<DOROTHY VACANCE>の時に、松本力氏のインスタレーションで流れて居た音楽もVOQの音楽だったけれど、その時は悪くないのではないか(それでもちょっと鼻についたけれど)と思ったのに、どうしてなのか?
・・・どうも、答えは、<DOROTHY VACANCE>と<東京くりから堂>と云う会場の違いに尽きるのではないかと思う。<DOROTHY VACANCE>は非常に自己があり哲学がある強い店である。それは一見表面に出ているようで出て居ないけれども(その感じもまた面白い)、売りものや空間、オーナーのことばを聴けば聴くほど、それはじわりじわりと魅力的に見えてくるし、必然的にリラックスした空間が自然に醸成されているのも感じられる。「外がどう云おうと、私はこれが好きなのである。何故ならば詰まるところこれこれこうだからこうなのである」と云うはっきりとした確信と自信が、かえってゆとりを生んでいるのである。意外にも透徹した客観性を感じるのである(ここまでイメージがはっきりしていると普通はそれに固執するあまり閉ざされてしまうことがおおいが、併し開かれているのは、その客観性のせいでもあるし、幾ら他のものを取り入れたとしてもじぶんの芯は揺らがずしなやかに取り入れていくことができるからだと思う)。そうすると中に飾ってある商品や、作家の作品までも徐々に魅力的にみえて来るのだ。
<東京くりから堂>では、空間も本も、どこか変に枠に入れられてしまっているし、その中で飾ってある作品たちも、いくらみようとしてもみえてこない。学園祭のはりぼてのようにしかみえない。



・にもかかわらず水田氏のキュレーションの試みは、非常に良いと思う。失敗でも成功でも、やはりどんどんやるべきであるし、オルタナティブな観点でキュレーションを試みていくと云うのは是非継続していってほしいと思う。彼女自身の文章や詩、写真には才能の片鱗も垣間見れる。ただ、まだそれは私ごときがこんなに屈託なく評価するとき、それを怖いとも思わないくらいのものである。いくら私が評価しようと否定しようと批判しようと、批判されようと、私自身が脅かされるものではないと感じる。寧ろ脅威・刺激に感じるのは<DOROTHY VACANCE>である。<DOROTHY VACANCE>には批評的な視点=「批評のものさし」も垣間見ることができるからだ。





・深夜、欠伸が出るようになってきて漸く耳が正常化してきたようだ。まだ完全ではないが。久しぶりにホロヴィッツショパンを聴く。やはり良い。続いてアルボス≪樹≫。なんだかこの曲、教会音楽とソビエトの土壌が絶妙な折り合いでブレンドされていて面白いのだ。




・購入
『辞書の政治学』ことばの規範とはなにか 安田敏朗 平凡社
↑この本、最初の方だけしか読んでいないが非常に興味深い