耳が治る




・昨日一日ずっとおかしかった耳が正常通りに戻る。寝ると云うのは凄いことだ。身体を全て調整するのである。更新されるのだ。休むと云う事の大切さを改めて知る。夕方、副職。




ラッヘンマンは、ほんとうに集中して音楽をきけばきくほど磨かれた魅力が出て来る。言い換えれば相当集中して聴かない限りは「単なる現代音楽」としかきこえてこない。BGMとしての要素が限りなくゼロなのだと思う。あくまで「背広」を着て、しっかりと作品と対峙してこそ魅力が顕現される。そう云う意味で、プライベートで個人的な親しみを持つような、馴染んで垢が付くことで出て来る内向的なものは微塵もない。いつも緊張しているわけ。そう云う意味では、凄く「外」のベクトルに向いている音楽なんだなと思う。あくまで、冴えて居るのだな、と。
それがフェルドマンになると、少しくぐもっている。ラッヘンマンではあくまで磨かれた金属のようにクリアで清澄な、それが重なりをもって複雑な構造を形作っているのだけれど、フェルドマンは、まるでフェルトを敷いたような例えばピアノの消音ペダルを使用したようなふうに音色も構造も少しマットになって来る。空間や意識が拡散していくと云うよりも、収縮していくような感じがするのだ。近藤譲ピアノ曲も、フェルドマンほどではないが、収縮型の範疇に入れてもよいだろう。非常に「理知的」なのだが、通底するのは内向的で柔らかくマットで繊細なところだと思う。ピアノの機種で云えばヤマハあたりがいちばんフィットするのではないか。フェルドマンも近藤譲も、ずっとかけっぱなしにしておくと時間の感覚がなくなって来る。ちなみに私の中ではグールドが弾くゴールドベルク変奏曲なんかは、これらに近い感覚がある。
拡散収縮で云えば、クセナキスは超拡散型であろう。大量に出て来るガラスの破片と金属の質量を受け止めると云うような手ごたえと云うのだろうか。とてもこれは元気がないと聴けないもので、心して聴かないと圧力で未来や異次元にまで吹き飛ばされてしまいかねない。背広ではなく宇宙服を着て対峙しなければいけないだろう。

ブラームスのあの奇想曲は、心の微妙な襞の、かゆいけれど手に届かないところを掻いてくれるようなところがある。収縮・内向型であるが背広ではなく、着古した室内着のような感覚である(ama2k46は着古した作業着と評する)。まるで年代物のワインやビンテージもののGパンのような味わい深い魅力である。
[2.11/ ama2k46に送ったメールをもとにしたメモ]







・購入
『どこにもない都市 どこにもない書物』 清水徹宮川淳 エパーヴ6 叢書エパーヴ
『ひとでなしの詩学』 阿部良雄 小沢書店
『西欧との対話』思考の原点を求めて 阿部良雄 河出書房新社
文藝春秋 2012・3』芥川賞発表受賞作二作全文掲載 三月特別号 文藝春秋
尾野真千子のインタビュー「『カーネーション』と私」掲載。



 糸子を演じるにあたって、まず「ブサイクになろう」って決めました。何をするにも、「かわいい」と言われたり、見られたりすることを望まず、ひたすら「ブサイク」になろう、と。
 やっとつかんだ朝ドラのヒロインで、毎日テレビに映るんですから、本当なら少しでも可愛く映りたいじゃないですか。でもそれは一切封印して、「恥ずかしい」という思いをなくす、と決めたんです。小原糸子を演じるには、恥ずかしがっていたら何もできないんですよ。
・・・実在の人物がモデルだということは気にしませんでした。もちろん、小篠さんの経歴や年譜は読ませていただきましたけれども、知りすぎたら「小原糸子」でなく「小篠綾子」になってしまいますから。でもフィクションにしてはいろんなエピソードがそのままなので、「小篠さんの本を読んでおけばよかったかな」って思う事もありましたね(笑)。
 夢って、先に見るものじゃなくて後からついてくるものだと思うんです。・・・06年秋の連続テレビ小説芋たこなんきん」で主人公の叔母役をいただいて。それで完全に「もうヒロインというのはないんだ」という思いを強くしました。そう思ったら朝ドラは家にある醤油みたいな存在に変わっていたんです。「いつもそこにある」当たり前のものだけど、意識して目に留めるわけではない、そんな“醤油”が私にとっての朝ドラになっていました。
 だけど醤油ですから、絶対になくならないんです。必ず家にある(笑)だから「もうヒロインのチャンスはない」と言いながらも(チャンスさえあればという)闘志はなくなっていなかったんだと思います。「やりたい、やりたい」と思っていたときには手が届かなくて、「醤油」と思ったら手が届いていたというのは不思議なものですね。