辰野柴田具体一柳MRYアラザルソラリス





・怒涛のように忙しかったのが七日まで。八日からは暫く、遊びつくした。外的な事象を取り入れた。





・金曜日は新国立美術館に行って、「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」を観る。非常に素晴らしく充実した展示で、私なぞはまだまだこれからなのだと云うことを改めてひしひしと実感する。併し意気消沈したのではなく勇気づけられたと云うことである。じぶんの「のびしろ」がぐんと伸びた気がする。同時にじぶんの模索していること、制作していることのベクトルにも自信を持つ(何も彼らと似ているとか似ていないとかそういうことではなく)。模索の「仕方」に就いて。
彼らが二十代、三十代、四十代、五十代、六十代・・・と年を重ねていく毎にどのように模索が変遷していき、「厚み」をもってくるのか。辰野氏が、柴田氏が、「彼ら」になったのはいつなのか。成長、模索、成熟、爛熟、開花とはどう云うことなのか。つづけると云うことはどう云うことなのだろうか・・・。

・会場を出るとついこないだアトリエを観に行ったTDが奥さんを連れて居て、三十分くらい喋る。そのあと具体の展示をもう一度観る。前回観たときはそのあと行かなければいけない用事があって一時間も観ることができなかったので、今回今一度観ることができてよかった。矢張りだいぶ見落としていたものも多く、思い違いしているところも少なくなかったので、やはり丁寧に観ると云うのは改めて大切だと思う。同時に、違う日に、違う心持で観るとまた全然違った角度からも観ることができるのである。ポロック展の時もそうだったけれど、二回見ると、展覧会がぐっと立体的になってくるし、個々の作家は勿論、キュレーターがやりたかったこと、考えたことの筋道もよくみえてくる。

・気分がとてもよかったので、ちょうどtwitterで呑みたい気分だとつぶやいていたMRYに電話をかけて渋谷で落ち合う。流石はMRY、渋谷を本拠とするだけのことはあって店を知っている。一件目の中華は混んでいて断念したが、二件目に行った中華屋のまあ美味しかったこと。センター街のどまんなかで落ち着いて然も最高に贅沢な食事をできるなんて夢のようである。特にきくらげは絶品。紹興酒がすすむ。MRYは昔は山の天気のように気分が変わることも多く、しばしばそれに追いつけないこともあったけれども、この頃は百八十度違うというか、一語一語かみしめるように、大事に言葉を紡いでいた。結局もう一軒行って(そこも非常に明るくて雰囲気のいい店であった)、終電で帰る。持つべきは友である。






・土曜日、昨日MRYに誘われた一柳慧の演奏会に行く。七時に待ち合わせをして開場するまで並んでいた。勿論最高によい席を取る為である。併し、フェイントなのか開場する場所が直前になって変更とのこと。観客は混乱をきたし、突如通勤ラッシュのような押し合いへし合いが始まる。最初開くと思っていた扉とは全く逆と云ってもいいほどの扉からの入場だったので、だいぶ後列のほうになってしまっただろうと思い、MRYと意気消沈していたが、入場扉が空いた途端なるべく良い席をとるために早足で会場に着いたせいか(会場までの通路がやたら長い)、予想外にもかなりベストな位置を確保することができた。ただし座りで、やせた座布団しかなかったので足の窮屈なことはこのうえなく、あっと云う間にしびれてきたり痛くなったりしたんだけれど、まあ一時期はどうなるかと思っただけに、よしとしよう。
一柳氏の演奏は最初比較的オーソドックスなピアノソロ(無調音楽)から始まる。やたら金属質な音は意図的なのだろうかと思いつつ聴く。決してこの金属質は曲とあっていないわけではない。しかし比較的指を早く動かさなければいけないパッセージになったりすると、思い通りの音を出せていないといったふうの苦し紛れな箇所も散見された。
勿論作曲家としての「この曲はこのような解釈なのである」と云うイメージは非常に伝わってきたが、その楽器と調律、そして自身の曲の技巧をじぶんの血肉に出来ていないと云う感じであった。

・但し二曲目からのプリペアードピアノからはうって変わり、のびやかな拡がりのある音になった。音が途端に生きたのである。勿論音響担当の有馬氏の、完璧な技術によってそれが最高の形で聴けるようになったと云うのは大きいのであるが、やはり一柳氏じたいが、今はプリペアードピアノの音色自体にいちばん無理なく馴染んでいるのではなかろうか。プリペアードピアノの音に関しては、ただの一音も、持て余し気味の音がなかった。すべてしっくりした音を聴かせてくれたし、音楽の流れが出来ていた。

・ヴァイオリンの甲斐史子氏も非常にプロフェッショナルで、明らかに楽譜に指示されていないであろう微細な表情までもしっかり把握理解して、一柳氏のイメージを体現していたように思われる。あれくらいミニマルな音楽だとほんとうにごまかしがきかないだけに、技術だけでなく感性と云う点でもたいへんなレベルだと云うのがよく判る。



・終わった後、KJ、音楽家のSMと立て続けにみつけたので、MRYと四人で神保町の中華料理屋「謝謝」まで繰り出す。昨日も愉しかったけれど、今日は今日でまた違った最高の充実した呑みであった。無理がない、リラックスした、しっとりとした呑みであった。
店も大変感じがよく(SMがそこのお姉さんを絶賛していたが、よく判る)、勿論美味しいのだけれども、なによりも安かったのが助かる。






・日曜日〜月曜日、実家。大相撲初日、大河ドラマを観る。月曜日、南行徳へ仕事。来週から専門学校が始まる(かなり遅い)。

・月曜深夜,
ソダーバーグ版≪ソラリス≫を観る。「暖色」=記憶・地球と「寒色」=現実・宇宙船、そして「混沌とした紫色」を主調とした惑星ソラリスの表面を使い分けて記憶と現実を交叉させる手法は、観る者を奇妙で宙吊りな気分にする。宇宙船と云う現実、地球と云う記憶、自分自身と云う曖昧さ、その人がその人でありながらじぶんの記憶であり、併しその記憶が主体的に「生きる」と云う非常に奇妙な現象。然もそれに愛情を持った途端、「人間」に消されてしまう。それを従容として受け入れるその「記憶」人。いや、ソラリスの物体。人間=博士がいちばん合理的かつ機械的であり、自分の記憶から組成されたソラリスの「物体」が人間的な感情をいきいきと持ち合わせている。非常に哲学的な映画である。ソラリスは結局何をしたいのかと云うと、何をしたいわけではなく、ただ、そう云う反応を示す処なのだろう。
こんなことを実際に経験したら、どうしたって狂うだろう。それにしたって、あの不条理なハッピーエンドに拍手を送りたい。尺が長すぎないのもよい。



・大きな仕事もひとつふたつやったし、至極体調も精神状態もよい。殆どベストである。