気の回りすぎる人



・僕の周りには「気の回りすぎる」人がやたらと多いようにこのごろ感じられてならない。その人たちの思考構造にはなにやら同じようなパターンがあるような気がしてならない。そして、ひょっとすれば、気がつけば自分もそういう「気の回りすぎる」人になっている危険性もあるとも感じるこのごろ。自戒の意味も込めて徒然に書き連ねてみる。


・気の回りすぎる人は、友情や愛情を感じているひとを縛ってしまう危険性がある。それは親子でも親友でも恋人でも夫婦でも会社の上下関係でも組織でも。あまりにも配慮しすぎたり先回りしたりしすぎると、つっこみどころがなくなって結果的に大切に思っている相手に、閉塞感を齎すこともあるのだ。配慮されすぎたほうはボケの役割を知らぬ間に過剰なほど演じなくてはいけなくなってしまい、結果そのひとに要らぬルサンチマンやコンプレックスを醸成させてしまうこともあるであろう。(結果、配慮されすぎたひとは自分のペースを失い、ほんとうにダメになってしまい、ますます気の回りすぎる人に頼ってしまわざるを得なくなるという悪循環の構造が出来てしまう場合というのもあるだろう)。


・気の回りすぎる人は、そんなことを言われるとき、よく「自分はここまで真剣に考えているのだ」「誰よりも考えている、やっている自信はある」「こんなに配慮しているのに」というような類の反論をする。しかし、ここがみそで、「こんなに考えて真剣で配慮している」からこそ、周囲は知らず知らずのうちにその「真剣な配慮」に支配されて、息が詰まる思いをしてしまうこともあるのである。


・気の回りすぎる人は、真面目で誠実で潔癖な人が多い。そして、自分なりの「正義」「こだわり」の基準を厳格に持っている。そして、その基準を厳格に持っている「から」自分はある程度認められてしかるべきであり、報われるべきだと多かれ少なかれ思っているのではなかろうかと思う。しかし、それが知らず知らずに「正義」「こだわり」のもとに、他者を息苦しくさせ、「彼」の基準に合致しないものを神経症的に排除してしまう危険性があるのではないか。そうすると、やはりちょっとしたプチファシズムの萌芽が垣間見えてしまうのではないかと思うのである。


・「彼」らには肯定的な意味でもう少し、脇が甘いところや、抜けたところや、ボケた所が必要であるように感じる。(例えばではあるが、あまりに完璧な「先生」ではだめなのだ。よく講師をやっていて、そして他の講師達を見て思うのは、「先生」という職業に責任感を持ちすぎているほど、力めば力むほど、生徒にも同僚にも誤解を受けてしまうところが多いような気がする。親子関係では、あまりに親が気を廻しすぎると、子供はあらゆる意味で自主的に出来なくなり、結果的に親離れ子離れできなくなるといったようなことになりやすい)


・彼ら「気の回りすぎる人」はどこかで、気を廻せば廻すほど、配慮すればするほど、思考すれば思考するほど、レベルが高いのだと思い込んでいる節が有るように感じる。またはそうしなければならないのだとどこかで思い込んでいる。


・<七割の力>というか、<まあまあ>、<ぼちぼち>という感性が必要ではないのか。またはその感性を、<ゆらぎ>といったり、<ほころび>といったりするのかもしれない。その感性を得られたとき「彼」は、神経症的な「支配者」から脱却できるのかもしれないとも思ったりもする。そのくらいでやっとちょうど良い加減の塩梅になるのではないかと思う。自分にも他人にも。


人間性の根本に於いて、詰まるところ窮極のところは、「強さ」ではなく、しなやかさ、柔軟さがミソのような気がする。普段ミスはしても、ダメ人間でも、詰まるところ柔軟な人は、詰まるところで信頼できる。なぜならば、詰まるところで、ぬけを作って息ができるように催してくれるからである。人間、気が小さいところなどいくらでもあるけれど、この「詰まるところ」が狭量であると、根本的に人を貶めてしまう危険性がある。


・気の廻しすぎる人は、謝ることを非常に嫌う故に、謝ることを絶対にしないようにするために(未然に防ぐために)、気を廻しすぎる。が、謝らせることはだれよりも得意である傾向にあると感じる。


・何でもよく考えたものやよく気を廻したものが正しいとは限らないし、そもそもが、正しいのだから=良いと云うものではないような気がする。だいたい、これが正しいということなんていうのは、そう簡単に言い切れないのではなかろうか。「真理」というものは、そう滅多に見つかるものではなく、それは意思によって出てくるものでもなく、それは演繹的に自然に導き出されてくるものではないのだろうか。


・過剰に気を遣い、もてなし、人に悪い気を起こさせないように、文句を言われないように、しすぎるのも、どうなのだろうか?(まあ、彼らはそもそも全然そう「しすぎている」とは思っていないし、寧ろ最低限の気遣いしか自分はしていないとストイックに考えていることが多いのだが。また、そこが一番の問題点なのだが。)・・・それは、けっきょく、自己防衛のための過剰な「対策」であり、あまり良くない意味での自己中心的なだけなのではないのか?・・・